仕事柄、短い文を穴が開くほど眺めたり、その文を解体したり再構築してみたり、新たに一から作り直したり、そういう時間が多い。
この一か月はとくに、寝ても覚めても文字列と睨めっこで、微妙な違いをもつ日本語独特の言い回しに呪われそうなくらいだった(継続中)。
その合間に読むべき本ではなかった、というのが正直な感想。
読書は食事に似ていて、そのときの気分や状況に添わないものを差し出されると正常に消化できないのだと思い知る。
たとえば、疲れているからお腹はぺこぺこ、栄養も必要だ、でもいろいろ手間をかけるのは面倒だからとりあえず胡瓜でも丸ごとぼりぼり齧ろう。うん、うまいうまい。という気分なのに、オーガニックの野菜を見映えよく盛り付けたサラダに無添加ドレッシングを垂らしてさあどうぞと出されたような感じ。
今の私が求めているのは、洗練された器の中心にちんまりとのっているそれではない。味付けが物足りないのではなくデフォルトが作為的に整いすぎて食べている気がしないのだ。
もっとダイレクトに体に入っていくものが食べたい。
ギブミーマヨネーズ! カロリーも添加物もウェルカムだ!
そんな不満の声がどんどん湧いてくる。
こじゃれやがって、という悪態まで出てくる。
不健康だ。
『イルカ』に限らずよしもとばななの生み出す文体はこういう消化不良をときどき起こす。
欲しいときに摂らないと、脳のどこか過敏になっている箇所がピリピリと拒否信号を送ってくる。これまでも、何度かあった。
おそらく私の反応するポイントこそがよしもとばなな「らしさ」であり、信奉者にとっては旨味の部分だとは思う。
些細な出来事、ありふれた風景、ちょっとした心の動き、ありとあらゆる描写が選び抜かれたことばで表現されている。それは一流シェフにしかできない技でもあるのだが、今の私には回りくどく感じるし、これ見よがしと映ってしまう。
五郎とユキコさんに、別れてもらうなんてことは夢物語だ……それは、あるきれいな雪の日に、都会の公園を通りかかって、そのきらきら光るような一面の銀色の世界に誰の足跡もつけないでほしい、自分だけがそこにいたい、というのとさほど変わらない。あるいは真夏のすばらしい海辺に他の観光客もパラソルも一切なかったらどんなにすてきだろうと思うことにそっくりだ。
これは、主人公が複雑な恋愛関係を持っている男(五郎)にはまた別の複雑な関係の女(ユキコ)がいて、でもその男を独占しようとは思わない、という心情描写。
シンプルに別れてほしいという本音ではなく、むしろそんなんじゃないということにしているのがまずいやらしい。そして、独占欲のたとえが清らかすぎる。
人間は、雪できらきら光る公園でもなければすばらしい海辺でもない。みんなでその美しさを愛でましょう、なんて話あるか。仮に独占したいと思わないのだとしても、このたとえが出てくることって、ありますか?
…というようなやさぐれ感をもって洗練された文字群はつるつると上滑っていった。
主人公が五郎の子どもを身ごもったことも、駆け込み寺にいる傷ついた女の人たちのことも、ぜんぜん吸収されないままどこかへ流れてしまった。
このような消化不良を避けるにはもうよしもとばななは「読まない」ことにしないと、今までそうだったようにこれからも同じことが起るだろう。
それなのに、なぜよしもとばななをほとんど制覇するかのように読んできたかといえば、なんだかんだいって一流シェフの料理が食べたいときもあるし、そういうコンディションだとど真ん中に突き刺さることばに出会うと知っているからだ。
読み手というのは、じつにわがままな生き物である。
<追記>
このブログを書き上げた直後、吉本ばななの対談映像(放送は2015年7月で、当時は吉本の漢字姓)を観た。
どういうふうに小説のアイディアを思いつくのか? という質問に対して、「わたしは自分から取りに行かない女」「登場人物の方から‘これを言いたい’というのを言ってくる、それを聞いている」「3人くらいが何か言い始めたらもう書かなきゃいけないときだと思って書く」とこたえておられた。
この人は(作風や風貌からわかってはいたけれど)完全にイタコなんだなと思った。
となると、わたしのたとえた「一流シェフ」というのは的外れなものになるのかもしれないが、料理のできるイタコなんだと都合良く決めつける。
イタコの吐き出すことばに拒否反応を起こすのは、私があまりに現実世界に生きているという証拠なんだろうか。脳が圧倒的なリアルに侵されているときに拒絶を示すのだろうか。そんなことを考えた。良し悪しではなく、生理の問題なのだろう、と。