乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#13 だりや荘  井上荒野著

 

 コイツ、ほんっっとサイテー!

 

 心の中で何度も何度も「キーッ」とヒステリックなリアクションをしながら、しかし憎み切れない、いやむしろ惹かれてしまいそうで怖い、そんな矛盾を起こさせる男。

 

 

 恐るべし、井上荒野の書く女たらし。

 

 

 健康的で働き者で可愛らしく申し分のない妻(杏)がいながら、その姉(椿)とも関係を持つ夫(迅人)。

 これ以上の三角はありません! というくらい正しい(?)三角関係が、それぞれの視点から書かれている。

 

 

 まず私はこのいい加減でだらしのない、そして間違いなくセクシーな――外見的な描写はほとんどないにもかかわらず薫ってくるそれを認めないわけにはいかない――迅人に心を乱された。

 

 近年異様なまでに厳しくなった不倫バッシングの流れでいけば、この男は間違いなく下衆の下衆で叩かれまくり、芸能人でなくとも社会復帰できないくらいのダメージを受けてもしょうがない、そのくらいのことをしている。

 

 個人的には不倫に対して世間が騒ぐような強い抵抗はなく、雑にいえば、したい人はすればいいと思っている。

 なのに、妻の姉と、となると急に「そこは節度を持ってくれよ」なんて倫理観が湧いてくるから不思議なものだ。誰が決めたか知らないが、というかそんなものはそもそもないが、最低限のルールは守ってくれ、と思ってしまう。

 

 さておき、迅人と杏夫婦は椿のいる信州の山の中へ移り、ペンションを営みながらともに暮らすことにしたというのだから三人とも何考えてるんだか、と驚き呆れる。

 

 そんな、同じ敷地内に妻と愛人両方がいるという状況でこの男ときたら、まったく悪びれもせず、それどころかちゃっかり堪能しているのだから憎たらしい。

 

誰でもない、この俺を心から必要としている女二人との暮らしなのだ。うまくいかないはずはない、と迅人はあらためて思う。

 

 すごい理屈。女が俺を求めているのだから仕方ないってか。

 

びっくりしたが、安心もしていた。自分はこんなふうにちゃんと、椿のことも愛している、と思って。

 

 浮気ではなく本気だからいいのだ、ということにして自己正当化。

 

俺は幸福だ、と迅人は思う。

 

 そりゃそうだろーー

 

「猫を拾ったら最後まで面倒みるべきだろう?」

猫が重要なんじゃない。重要なのは、拾ったことだ。

 

 

 コイツ……と、改めて思う。思うのだが、次第に私の憤りは浮気相手である姉へ向かっていく。

 

 

 誰もが口に出して褒めそやす美人であるだけでなく、病弱で、儚げで、働きもせず日銭を憂うことなく妖精のように生きている椿。

 この「病弱で、儚げ」というところがとくに気に入らない。

 

 昔からそうだった。

 漫画に出てくる薄幸の美少女(なぜかだいたい金持ち)というやつに、「けっ」と白けたのを思い出す。

 歩けないことで皆に優しく見守られるクララ(富豪の娘)や、車椅子の身となったことを武器にキャンディからテリィを奪うスザナ(この人も良家のお嬢様っぽかった)に対して、「あざとい」という言葉はまだ知らなかった幼き私が抱いていた反感。

 

 体弱いの~

 

 それだけで何かを免除されている(ような)人にひがみ根性を持つのは大人になっても変わらない。

 残念ながら私には、ハイジやキャンディの天真爛漫さは備わっていないようだ。

 

 

 こうして私の心はざわざわしっぱなしではあったけれど、物語自体は静かに美しく流れていく。

 

 

 その静けさは、早い段階で夫と姉の関係に気付いていながら沈黙を守り続ける杏によるところが大きく、そこが最大の疑問でもある。

 

 

 彼女の沈黙は復讐ではない。

 裏切りを知ったあとも、夫への愛は変わらない。

 姉への愛は夫へのそれよりもさらに深まりを見せる。

 

  泣いてわめいて訴えて、どろどろの不倫劇になる要素はたっぷりと含んでいるのに、そうならない。そうしない。

 

 

 杏の性格的な問題だとしかいいようがないのかもしれないけれど、釈然としないまま静寂の中物語は閉じられた。

 

 誰かと居酒屋で「あれってどういうこと?」「こうなんじゃない?」なんて意見を出し合ったり、迅人が実在したら落ちる派と落ちない派に分かれてあれこれ議論したら面白いかも、と一瞬思ったが、そのような機会(複数名で居酒屋)は確実にないので脳内討論会をするしかない。