pre感想を経て、ようやく本題へ。
主人公・里佳は週刊誌の記者。
世間を騒がせた首都圏連続不審死事件の被告人・梶井真奈子(通称カジマナ)の独占インタビューを取ろうと近づいていくのだが……
「カジマナってなんかすっごいよく食べるんだろ。デブなわけだよなあ。あんなデブがよく結婚詐欺なんてできたと思うよ。やっぱ料理上手いからかなあ?」
おっと~
いきなりくるか。
序盤も序盤でド直球を投げたのは、里佳の親友・伶子の夫。
見事に「世間一般の声」を表していて、ほとんどの人が思っていることを包み隠さず言えばこうなる、という台詞。
これを「女性蔑視」だと怜子は敏感に感じ取っているし、それに気付いた里佳はひやりとしているけれど、私はそう思わない。なぜなら、デブでハゲの男性が同じような事件を起こしたら「あんな……」と言ってしまうだろうから。
ここで蔑視されているのは見目の悪い人間で、性別問わずの「美醜差別」だ。過剰に「女性ばかり」が不当な扱いを受けていると思い込みたくない。
が、男性と比べて女性が美しさをより求められていることは言わずもがな。それに加えて、美醜を抜きにした差別も根強く在ることは確か。
後半の「やっぱ料理上手いからかなあ?」が如実にそれを物語っている。料理が上手い=婚活詐欺もできる、裏を返せば、料理ができない女にはブスやデブと同じくマイナスポイントを与えますよ、と言っているようなもの。
(しれっと言うなよ、こういうことを。と、やっぱりこの夫にイライラ)
ともかく。
カジマナ事件が注目されているのも、まぎれもなく彼女が「美人ではない」し「太っている」からだ。
それなのに! と反語的に人々は反応し、好奇心をかきたてられる。
もしカジマナが美人だったら、抜群のスタイルの良さだったら、こうはならない。
「ああ、あんな美人(あるいは美ボディ)だったら男は落ちるよね」と納得するだけだ。「見た目につられて調子に乗った男にも非がある」とすら言われるかもしれない。
結局顔かよ!
そう思う場面は、日常の中にごく普通に転がっている。
誰かが誰か(私を含む)を評価する場面、不特定多数の人が女性全般をジャッジする場面、また、私自身が異性を好きになる/なれないの境目で自分に突っ込みを入れる場合も然り。
人間が容姿の美しさに惹かれたり、逆に嫌悪することはどうしても避けられないし否定できない。動物としての本能に加え、物心つくまでに美しさの定義を洗脳されて育つ環境がある限り、どうしようもない。
「見た目じゃないよ」というのは理想ではあるかもしれないが、所詮きれい事。じゃなければ、どうしてこんなに美容整形やエステや化粧の技術が発達する必要があるか説明がつかない。
そうして世の(主に)女性はせっせと手間とお金を費やしてより美しくなろうと努力をしているというのに、このカジマナときたら、それをあざ笑うかのようにゴーイングマイウェイなのである。
ところが、梶井は何よりもまず、自分を許している。己のスペックを無視して、自分が一人前の女であることにOKを出していたのだ。大切にされること、あがめられること、プレゼントや愛を与えられること、(中略)それらをごく当たり前のこととして要求し続け、その結果、自分にとっての居心地の良い環境を得て超然と振舞っていたのだ。
痩せている=美/太っている=醜 という大前提を正面から覆し、欲望のおもむくままに食べ、結果太ろうが一向気にしないという潔さ。さらにそんな自分を卑下することなく、むしろ自信に満ち溢れている。
「あなた一体、なんのために痩せるんですか。男性の目を気にして? それなら心配ないわ。男性は本来、ふくよかで豊満な女性が好きです。(中略)痩せた子供のような体型の女性が好きだという男性は自分に自信がなく、例外なく卑屈で、性的にも精神的にも成熟しておらず、金銭面でも余裕がない方が多いんです」
誰が何と言おうと惑わない価値観を持っている者の安定感を見せつけられ、反対に私(たち)の信じてきた共通の価値観はぐらぐら揺さぶられる。
多くの女性はカジマナに対して、自我を散らかされる居心地の悪さと、彼女の奔放さへの羨望の両方を持つはずだ。
そして、「あんなデブが」と見下すのは、こちらを否定されたバツの悪さを誤魔化すためであり憧れの気持ちを認めたくないからだ。
あんなブスに、あんなデブに、嫉妬なんてするはずがない?
「努力だの精神論なんてどうでもいいの。その時、一番食べたいと思うものを好きなだけ食べるのよ。耳をよく澄まして、自らの心や身体に聞いてみるのよ。」
先に、物心つくまでに美しさの定義を洗脳されると書いたが、思春期にもなればもっとはっきりと「痩せている方が良い」「太ってはいけない」というメッセージをメディアを含めた様々な方向から植え付けられ、気付けばその呪縛から逃れられなくなっている人は多いと思う。
私もその例に漏れず、いつからかカロリーや体重(の増加)は敵になり、食欲と美を天秤に掛け闘っているような時期を長く過ごした。年齢とともにその闘いはかなり緩やか(カロリーとか考える前に、食欲自体が減退)になってはいるが、今なお続いているし、一生続くかもしれない。
心ゆくまで、好きなものを好きなだけ食べられたらどんなに幸せか……
こんな夢想をすることは、ないだろうか。
これを実行すること自体は決して難しいことではない。羽目を外して暴飲暴食してしまうのは、ほとんどの大人なら経験していそう。
問題はその後の「やっちまったなぁ~」感
このクールポコ現象が起こる限り、私(たち)は自由とはいえない。
だからこそ、カジマナの自由さに憧れるのだ。
カジマナは太ること(醜さ)と引き換えに何かを失ったわけではない。自由を保持した状態で、色ごとまで堪能している。最強だ。
もう一度、問う。
あんなブスに、あんなデブに、嫉妬なんてするはずがない?
呪縛から解放されたくて仕方がない私(たち)は、大いに嫉妬する。
いいなーーー
って、思う気持ちが、どこかにある。
まずは、濃厚なバターを惜しみなくのせた「バター醤油ご飯」を食べよう。
結局胃袋なんかーーい!orz