乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#31-1 すべて真夜中の恋人たち  川上未映子著

 

 過去に2回読み、2回とも読書メーターに短い感想を残しているのだけれど、文字数制限255字の中に自分の感じたことを収めるのはとても難しかったので、このブログを始めた時から、いつかもう少し掘り下げて書きたいと思っていた作品。

 

 

 改めて過去の感想を振り返りながら、3度目の読了後に感じていることを加えていこうと思う。

 

 いっぺんに書こうとするときっととんでもなく長くなるので、まずは1回目(2014年12月10日)の感想を引用して、それに書き足していく。

 

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最初に読んだ「わたくし率イン ハー、または世界」が全然好きじゃなくてアレルギー的にこの作家を避け続けていたけど、アレルギーとか言ってごめんなさいと平伏したいくらいの作品だった。わたしがずっと感じていたどうでもいいようなことだけど絶対にどうでもよくないことが1ミリの狂いもなく正確に文章化されている箇所が二つもあって感激した。

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「1ミリの狂いもなく正確に文章化されている」というのは、主要人物の一人である石川聖(30代女性)が、スピリチュアルに傾倒している人々に対して批判的に述べている部分のことを指している。

 

 

「スピリチュアルでもエコでも何でもいいけどさ、ああいう考えかたって、ひたすらにさもしいと思わない?」(中略)「あんなの、単に自分が幸せになるための、そして自分が人から幸せだって思われて安心したいだけの、ただの現世御利益信者でしかないじゃない。そのくせにわたしたち何かおおきなものをみています、おおきなものを感じて、それについて考えているんですってふれてまわる、あの感じ。それでその幸せな感じをおすそわけしたいんですっていう、あの感じ。ほんとは自分が幸せになることしか興味ないくせにね」

 

「そしたらね、あの人たちはわたしのことをほんとに哀れむような目でみるのよ。(中略)それで『わたしも石川さんと同じように考えてるときがあったからわかる……でも、いつか気づくんだよね。でもこればっかりは自然のタイミングで呼ばれるときに呼ばれるものだから』みたいな、なんかいつのまにかそういう話になってんの。誰に誰が呼ばれるの? 何の話してるのかわたしまったくわからないわよ」

 

 

 前半部分の「さもしい」「ほんとは自分が幸せになることしか興味ないくせにね」とは思わないけれど、それ以外のところは、私がスピリチュアル系の人に出会う頻度が高くなった頃からずっと感じていたこととぴったり重なっていて、そうそうそうそう、私もそう思ってたの! と何度読んでも大きく頷いてしまう。

 

 不倫やパパ活や整形などについて、「したい人はすれば良い」と再三書いてきたけれど、スピリチュアルでもエコでも基本的な考え方は同じで、結局みな信じたいものを信じるししたいことを正しいと思ってするわけで、したいようにすれば良い(するしかない)と思っている。

 行為そのもに「それってさもしいよね」「単なる現世御利益主義じゃん」とジャッジすることは、私はできない。

 

 

 ただ、その行い自体と優越感を持つことは別である、そう思うのだ。

 

 ざっくりいえば、彼らの「これに気づいた私=幸せ/気づいていないあなた=可哀想」という意識が透けて見える発言や態度には、違和感を持たずにいられない。

 

 

 私が見てきたスピリチュアルな人たちも往々にしてその傾向が強い。

「わかる人にはわかる」らしい独特の単語や言葉遣いをすることにそれがよく表れている。

 聖のいう「呼ばれるときに呼ばれる」という言い回しもその一つで、言わんとすることはわかるし実際そのように感じる出来事を経験したこともあるけれど、他人に向けて言う必要はあるのだろうかとつくづく疑問だ。

 誰かと自分を比較する基準にしてしまえば、そこに「さもしさ」が生まれる。

 

 どうして胸の裡で収めていられないのか。

  

 微妙に口角を上げて語られるたびに、私はそんなに残念な人間なのかと反発心が湧く。大きなお世話だ、とも思う。あなたはそれで満足しているのならそれだけでいいじゃない、とさらに思う。

 

 きっと聖も、きらきらした顔で無邪気にマウントしてくるような人々に抗うあまり、「何の話してるのかわからない」と噛み付きたくなるのだろう。

 

 

 私は体質的にアルコールを受け付けないので、酒好きの人から見れば、呑めないなんて人生損してる! と思われるだろうし自分でもお酒を愉しめたらいいのになあと思うことがよくある。逆に、少し癖はあるけれど美味しい(そして体にも良い)もの――納豆とかパクチーのような――が嫌いだという人がいたら、人生損してるね! と言うこともある。

 

 でも、それとこれとは微妙に違う。

 同列で押し付けてくれるな、そういいたい。

 

 何が違うかといえば、例に挙げたアルコール類や食べ物は単に嗜好と体質による好き嫌いで、一方スピリチュアルとか宗教とか占いでもいいけど、信じるか信じないかという好みを越えたもっと深い個人の人生観や信念のような主観が大きく左右するものは、選ばなかったからといって「損」でもなければ「残念」でも「可哀想」でもないはずだ。

 

 自分の良いと思ったことを他の人にもシェアしたいという出発点は悪い事では決してないけれど、それならばフェアな情報提供にとどめ、双方(発信者および受信者)が同じ温度でいられるようにする方が、結果的にどちらにとっても有意義なんじゃないだろうか。

 

「この良さをわからないあなたは可哀想」なんていう傲慢な意識はスピリチュアル族のもっとも避けるべきはずのエゴでしかないのでただちに止めた方がいいし、エコロジーだって、個人個人でできること・できないことに差はあって、そもそも思想も各々違うのが当たり前なんだから、たとえ善行であろうともそれで優劣をつける権利は、誰にもない。

 

 そうは言いつつ、実は今、隣に住んでいるおじさんが、共有のゴミ箱(そのゴミ箱を使うのは、基本的に私とそのおじさんだけ)にリサイクルできるペットボトルも牛が食べられるバナナの皮も一緒くたに捨てることが猛烈に不快だと感じている。

 

 どこかの大使館に勤めていてリタイアしたインテリインド人らしいが、教養と常識観はまったく別モノなんだな、とつくづく知らしめられる。

 

 でも、「分別すべき」「分別したほうがいい」「分別してください」、どれも言いたくないので無言でゴミ箱からのけて横に置くことにしている&空気読んでくれることは、期待しない。ここでいう「常識観」は、あくまで’私の’だから。

 

 こんなことをつらつら考えているタイミングで本当にたまたま昨日、ある瞑想法にどっぷり浸かって実践し続けている複数名と話す機会があった。

 

 当然かのように話題は瞑想のことが中心だったのだが、私が「以前その瞑想は私もやってみたけれど、自分には合わなかった」と言ったら、その中の一人の女性に、まさに「ああそうなんだ、可哀想に」という目を向けられた。

 私にとってそのメソッドは単純に「合わない」だけの問題なのでとくに議論する気はなく、ただ自分の時間と気分を守るためにその場からそっと気配を消した。

 

 しばらく経ってもその件から離れない(話題が逸れてもそこにまた戻る)のを見ていたら、まだその話?! とか言いそうになった(聖なら絶対に言ってただろう)けど、これもぐっと言葉をのんだ。

 

 

 こういうまさしく今! のタイミングで降ってきたこの状況を、彼らなら「引き寄せたんだね」とでもいうのだろうか。ま、そういう見方もできますねー、くらいですが、私は。