乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#33 火花  又吉直樹著

 

 2015年3月、紀伊國屋書店新宿本店で又吉さんご本人から受け取ることができたサイン本は、今でも家宝として大切に保管している。

 どこへ行っても「センセイセンセイ」ともてはやされ(あるいはいじられ)ている今となると、お渡し会で本を手にすることができたのは奇跡のよう。

 

 芸人さんとしても大好きな又吉さんが至近距離にいることで私の緊張は高まりすぎて、「(出版)おめでとうございます」と言うべきところを「ありがとうございます」と言ってぺこぺこおじぎをすることしかできなかった。しかも3回も。

 もっと伝えたいことがあっただろうにと、引っ込み思案な己を恨み恨み中央線に乗って帰った。

 

 そんな夢のような夜のことを思い出しながら、今一度読んでみた。

 

 

 まず驚かされるのは圧倒的な語彙の数とそれらの捌き方。

 

 脳内辞書から厳密に選んだ言葉を使って丁寧に組み立てられた文章は、ちょっと見むずかしそうなのに、「わかる人にだけわかればいい」という閉鎖性はなく、又吉さんの優しさが透けた仕上がり。伊達に「読書芸人」ではないなと、唸ってしまう。(どうしたって贔屓目で2割増くらいの高評価)

 

 

 たとえば、駆け出しの芸人達がオーディションを受けに行き、順番を待ってる場面。

  

夜中に若手芸人が集められる。狭い待合室に詰めこまれ、汚い服を身に纏った若者達は皆一様に腹を減らし、眼だけを鈍く光らせていた。その光景は華やかさとは無縁の有象無象が、泥濘に頭まで浸かる奇怪な絵図のようだった。

  

 まるで刑務所の中で限られた時間しか風呂に入れない男たちのように、ゆとりのない場所にひしめく彼らの姿が目に浮かぶ。

 

 殺伐とした空気感、飢えと欲望、何かを期待し何かを諦めているような表情。

 不自由さに苛立っているはずなのに「風呂に入れる(オーディションを受けられる)だけマシだ」というところにも、引用部の直後に「不平を訴えるものは皆無だった」とあるように、同種のジレンマが見える。

 

 有象無象(うぞうむぞう)とか泥濘(でいねい)など、親しみのない言葉が使われているのに、こうして鮮やかに絵が浮かびまた彼らの心情まで想像することができるのだ。

 

 

 語彙力、文章力だけではない。

「売れない漫才師の先輩・後輩(主人公・徳永)が苦節をともにしながら生きている日々」という物語は、これまでの芸人人生で吸収してきた経験を強みに、笑いはもちろん、哀しみも怒りも葛藤も、濃密に綴られている。

  

 中でも、先輩芸人にあたる神谷の人物像は、単なる破天荒な人というだけでなく多角的に心を揺さぶってくる。

 

 「だから、唯一の方法は阿保になってな、感覚に正直に面白いかどうかだけで判断したらいいねん。他の奴の意見に左右されずに」

 

  神谷はとにかく生真面目に、頑なに、自分の思う「面白いこと」をやり続ける。

 ウケるかウケないか、売れるか売れないか、そんなものさしは持たずに信念を貫くストイックさは、どこか死の影が見えるほどの危うさを伴っている。

 

 

 この人は、太陽みたいだ。

 

 

 底抜けに明るい、という意味ではない。

 

 

「つまりな、欲望に対してまっすぐに全力で生きなあかんねん。漫才師とはこうあるべきやと語る者は永遠に漫才師にはなられへん。長時間をかけて漫才師に近づいていく作業をしているだけであって、本物の漫才師にはなられへん。憧れてるだけやな。本当の漫才師というのは、極端な話、野菜を売ってても漫才師やねん」

 

 ぎらぎらと照りつける熱の塊は、ときに疎ましい。

 真っすぐ降り注ぐ光は眩しすぎて、目を覆いたくなる。

 

 

「ネットでな、他人のこと人間の屑みたいに書く奴いっぱいおるやん。作品とか発言に対する正当な批評やったら、しゃあないやん。それでも食らったらしんどいけどな。その矛先が自分に向けられたら痛いよな。まだ殴られた方がましやん。でも、おかしなことに、その痛みには耐えなあかんねんて。ちゃんと痛いのにな。自殺する人もいてるのにな」

 

「だけどな、それがそいつの、その夜、生き延びるための唯一の方法なんやったら、やったらいいと思うねん。(中略)あいつ等、被害者やで。俺な、あれ、ゆっくりな自殺に見えるねん。薬物中毒といっしょやな。薬物は絶対にやったらあかんけど、中毒になった奴がいたら、誰かが手伝ってやめさえたらな。だから、ちゃんと言うたらなあかんねん。一番簡単で楽な方法選んでもうてるでって。でも、時間の無駄やでって。ちょっと寄り道することはあっても、すぐに抜け出さないと、その先はないって。面白くないからやめろって」

 

  沈みゆく夕日は、超絶な美しさで私を魅了する。

 やわらかい赤がやさしく身体を、心を、暖める。

 

 

 神谷に弟子入りした僕・徳永は、この太陽から目を背けることをしない。

 太陽になりたくてもなれないことを知りながら、また太陽になることが是なのかどうかも見失いそうになりながら、ひたむきに目を開け続ける。

 

 

 

 私は漫才もコントも好きでよく見るのだけれど、この小説を読むと、安易に「面白くない」と言いにくくなってくる。

 面白いと思わないものを面白いと言うつもりは毛頭ないが、どんな芸人さんも、「面白いことをしよう」「みんなを笑わせよう」という純粋な気持ちでネタを練り披露しているのだという本当に基本的なことを改めて認識したし、それを一刀両断で駄作だと言い切るのはあまりに心苦しい。

 

 しかし彼らの相手にする「世間」――私を含め――とは実に移ろいやすく勝手なものだ。面白いと面白いとチヤホヤしたかと思えばすぐに飽きる、飽きては新しい何かに飛びつき、そしてまた別のものに目移りしていく。

 

 

神谷さんが相手にしているのは世間ではない。いつか世間を振り向かせるかもしれない何かだ。その世界は孤独かもしれないけれど、その寂寥は自分を鼓舞もしてくれるだろう。僕は、結局、世間というものを剥がせなかった。本当の地獄というのは、孤独の中ではなく、世間の中にこそある。神谷さんは、それを知らないのだ。僕の目に世間が映る限り、そこから逃げるわけにはいかない。自分の理想を崩さず、世間の観念とも闘う。

 

 

 やがて二人は別々の道をゆくことになるのだが、徳永は徳永の中の太陽を見つけることだろう。

 

 

 

君の中には、君に必要なすべてがある。

「太陽」もある。

「星」もある。

「月」もある。

君の求める光は、君自身の内にあるのだ。――ヘルマン・ヘッセ