乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#34 文章読本  谷崎潤一郎著

 

 以前、友人の感想を引用し、番外編として文体(講義体云々)について書いたことがある。

 元ネタである本書は読みたくても読めずにいたのだけど、その友人が日本から持ってきてくれたおかげでついに全編読了。ありがたや~

 

 

 谷崎というと、これまで読んだ小説のイメージで「フェティシズムマゾヒズムの人」と位置づけていたが、この本の中ではまるで別人のよう。

 びっくりする程‘まともな’国語の先生という感じで、言語および文章について微細にわたり理路整然と述べられている。学問的でありながら読むのが嫌になるような堅苦しさはない。

 

 とくに、三部構成のうちの「三.文章の要素」には、私のような一般人にとっても実用的な手ほどきが隅々にいきわたっていて、文章を書く上で参考になることがたくさんあった。

 

〇用語について

一つの文章は、一つもしくは幾つかの単語から成り立っているのでありますから、単語の選択のよしあしが根本であることは、申すまでもありません。そこで、その選び方についての心得を申しましょうなら、

異を樹てようとするな

ということに帰着するのであります。それを、もう少し詳しく、箇条書きにして申しますと、

一 分り易い語を選ぶこと

二 なるべく昔から使い慣れた古語を選ぶこと

三 適当な古語が見つからない時に、新語を使うようにすること

四 古語も新語も見つからない時でも、造語――自分で勝手に新奇な言葉を拵えることは慎むべきこと

五 拠り所のある言葉でも、耳遠い、むずかしい成語よりは、耳慣れた外来語や俗語の方を選ぶべきこと

 

 谷崎は、古語と新語の境目を「明治以降、西洋の文化が這入ってから出来た言葉を新語」と設定しているけれど、何しろ昭和9年の話、私にとっての「新語」は、せいぜい平成以降くらいのものかな。

 

 兎も角この項を読んでいる間、ここ一、二年ほどもやもやし続けているある用語に関する疑問がずっと頭の片隅にあった。

 

 

「忖度」って、何かにつけてみんなしれーっと使ってるけど、いつの間に、どうやって使いこなせるようになったの? そもそも使いこなせているの?

 

 

 忖度というのは新語かと思いきや、実は平安時代に既にあった言葉。それが、2017年の流行語になったせいか、気付いたらネットニュースでも日常会話でも矢鱈と出てくるようになった。

 

 けれども私は、「忖度」と見聞きするたびに、その文なり会話なりが一時停止してしまうという困ったことになっている。

 

 

「忖度」を挟んで前件と後件が、まったくもって接続しない。

 

 

 辞書で調べてみれば

“他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること。”

とあるので、概ね良い意味で使われているようだ。

 しかし一方で、権威に付き従おうとする心理が潜んでいるような(いわゆる長いものに巻かれる的な)ニュアンスが含まれていることもある。

 

 ということは、状況と使い手次第でどちらにも転ぶ言葉であり、また誤解を生みやすい言葉でもあるのではないだろうか。

 

 現に私がいちいち立ち止まって「はて、これは全体的に良い意味で言われているのだろうか、いや待てあまり良い意味ではないのかも……?」と思い巡らせた上でしている解釈が、発信者のそれと一致している自信ははっきり言って、ない。フィフティフィフティくらいの確率で外している可能性もある。

 

 つまりスペルは知っているものの実用したことのない外国語さながら私の頭の中で忖度は「そんたく」あるいは「SO N TA KU」だし、そんな言葉を自分のものにできるはずはない。

 

 

 それを、流行だから(?)といって簡単に操っている人が多いのには驚かされるし、忖度って言いたいだけなんじゃね? と思うこともある(というか、ほとんどの場合にそう拗ねた目で見ている)。

 

  

 ここで本当は、どこかで見た「忖度」を含む例文を挙げて、これは使い方として合っているの? どっちの意味で使っているの? などと解析してみたかったが、具体的に思い出せないくらいおぼろげな記憶にしか残っていないので割愛する。

 

 

 

 何が言いたかったんだっけ……?

 

 

 えー、文体については「女子は講義体を使わない方が良い」という谷崎の提案を完全に無視した私であるけれど、用語に関しては従順に、「分り易く」「使い慣れた」「耳慣れた」用語を選ぶようにしようと思った、ということ。

 

 

 それにしても谷崎先生、令和を生きるイマドキの若者が「まじ卍!」とか言ってるのは、どうお考えになるのでしょうか?