ゴロウ・デラックスで‘独身アラフォー女性「心をザワつかせるアイテム」への葛藤を描いた一冊’と紹介されているのを観た。
タイトルにある「甲冑」とは?
その解説として番組では稲垣吾郎氏(‘氏’が似合うなあ。もう吾郎‘ちゃん’ではないなあ。しみじみ。)が序文を朗読していた。
当方、43歳の都会で働く大人の女です。しかし、目が覚めて布団から出た瞬間の私はそうは見えない。(中略)
そこから「自称、都会で働く大人の女(43歳にしては若々しい)」になるためには、心身ともにさまざまな甲冑を装着せねばなりません。所属する軍を装具で表現せねば、スムーズに日常生活を営めなくなってしまいます。
買ったばかりの服、イヤフォンから流れる音楽、誰かを真似た髪型。自分を守るためなのか、世間に認識してもらうためなのか、はたまた外的要因とは無縁の内側から湧き上がる欲望が故なのか、私が身につける甲冑はいろいろです。
「所属する軍を装具で表現」というところで、なるほど確かに私も何軍に属しているかを示す甲冑を纏ってきたし今なお続いているなと、膝を打つ思いだった。
中学生くらいまで遡ってざっと振り返れば、ロックバンド追っかけ期・フレンチかぶれ期・赤文字系ギャル期・コンサバOL期・旅人期とさまざまな変遷を経て今に至る。この振れ幅の大きい変容は、自分が結局何軍なのかを探し、(血)迷い、試し、飽き、移ろっていった履歴でもある。
じゃあ今はどうなのかというと、心は旅人期のまま、しかしその甲冑では支障がある職業に就いてしまったので渋々別のものを、という少し複雑な時期。自発的に「どう見せたいか」「どう見られたいか」というよりも「どう見せなくてはならないか」が最優先の甲冑を身につけなければならない。
私が住んでいる国は、このご時世に「女性はスカートが望ましい」ということを平然とのたまうはっきり言って前時代的価値観が未だに根付いているところで、「そんなこと日本で言ったら性差別で訴えられますよ!」と物申したくなることもある。けれどここは日本ではないと言われればそれまでなのでぐっと呑み込み、べつにスカートは断じて履かない主義というわけでもないので大人しく履いている。
スカート着用はまあいいとして、それに伴いタトゥーなんて当然アウトだろうとクソ暑いのに黒ストッキングを履き、ストッキングを履くということは絶対にビーチサンダルではなくてパンプスを履くことになり、外反母趾なのに! #KuToo(苦痛)だ!! と、また私の反抗心が騒ぎ出す。
そんなしがらみにまみれたボトムスが先に決定しているのでトップスの選択肢はぐっと狭まり、「どう見せたい」どころではなく「周囲がどう見たいか」に支配されているのが今の私の甲冑だ。不本意過ぎる。
十年前ならこういった雇用契約には明記されていない(しかし簡単には覆らない)暗黙のルールを知った時点で即刻「無理!」とその場を去ったかもしれない。しかしアラフォーにもなればそんな衝動は瞬殺できるので、「これも仕事」「ユニフォームだと思おう」と割り切っている。そもそもそこまでして貫きたい仕事着があるわけではない。
愚痴のような前置きが長くなったが、そういうわけでスーさんのいう甲冑と私のそれは主体性が全然違う。なのではじめは、コンサバOL期の私ならもっと共鳴できたのかもしれないな、なんて思ったけれど、読んでみればまったくそんなことはなかった。
ここからがようやく本題。
著者が独身アラフォー女性の心をザワつかせるアイテムとして具体的に挙げているのは、赤い口紅やパッツン前髪のような目に見えるものから、オーガニック、ヨガ、ひとり旅、宝塚など「たしなみ」とか「習慣」のようなものまで多岐にわたっている。
一つひとつコメントしたくなるトピックばかりなのだが、アイテムそのもの以上に、それらに対する「ザワつき方」がいちいち独身アラフォーあるあるで面白く、これは20代~30代前半のOL期ではおそらく半分もピンとこなかっただろうな、今だからこそこの面白みを味わえるのだな、という妙なお得感で嬉しいような悲しいような複雑な心境。
ともあれ、スーさんのクローゼットの中で私が最も大きく頷いたアイテムは、手料理の「手」ってなんでしょうね。で始まる「手のつく料理」だった。
辞書によると、手料理とは「自分で、または自分の家でつくった料理」を指すが、それ以外では「簡単に作れる! 彼氏が食べたがっている本当の手料理8選」など辞書では定義されていない「時間」と「労力」をかけた「もてなし」の意味が含まれているというのが著者が検索した結果だという。
手料理が「もてなし」の意味を持つ限り、そこにはそれを受け取るに値する相手の存在が必要になります。その相手は誰か? 子どもでも親でも友達でも良いはずなのに、世間一般の認識は冒頭の検索結果でご紹介した通り。つまり女が男の気を引くための手段が「手料理」なのです。
むむー。言われてみれば「手料理」には「愛情たっぷり」という枕詞がよく似合う!
私が手料理というワードに過敏反応するのは、「愛される女は料理ができる」という都市伝説を少なからず信じているからです。(中略)そうはできそうにない自分をどこか見下しているからでもあります。
もうこれは私のことか! としか思えない。
料理が嫌いなのではない。一人ではほとんど外食しない、そして友だちは少ない、とくれば自ずと自炊の頻度は上がる。つまり「手」は付かないが料理はしているのだ。いや、辞書によればそれこそが手料理なんだけど。
私は自分だけが食べるカレーを何種類ものスパイスを使って作ったりするくせに、誰か(男女問わず)に振る舞うことが苦手なのだ。
恋人と一緒に暮らしていた時期は、日常的に簡単なものを作っていたこともある。
ものすごく感動されることはなくても、普通に「うまい」くらいは言ってもらえた。
でも、私がその行為――自分が作ったものを他人が食べる――に慣れることはなく、涼しい顔の裏には常にもじもじとした気持ちがあった。
これは料理の技術ではなく絶対に性格的な問題だ。そう突然確信する。
私に腕前があるということではなくて(そこは別問題として)、腕があると仮定した上でも、「振る舞う」という行為をてらいなくできるタイプか否か。
もちろん私は後者で、それは自意識過剰の極みでもある。
この人はいつもこんな味を食べてるのか、この味を良しとしているのか、なんかセンスないな、そんなふうに思われやしないかとびくびくするのだ。
手料理で振る舞うというのは味だけではない。
まず何を作るか(メニュー)にはじまり、品々の数と組み合わせ、盛り付けに至るまで採点項目はいくつもあって、それぞれが私を脅かしてくる。
そんな思いをするくらいなら作らない。美味しいものを食べられる手段なんて他にいくらでもあるんだから。
さりげなく私は手料理の機会を避けるようにしてきた。
一方で、料理上手が愛されることなんてとっくに知っている。それは決して都市伝説ではない(断言)。
だって、手際よくぱぱっと美味しい料理を作れる女の人って、同性から見ても魅力的だもの。え、この短時間で、これだけの材料で、どうやって?! 何をどうしたらこんなふうに?! と、まるでマジックみたいに出てくる手料理は、男だけじゃなく女の胃袋だってつかんじゃうんだ。
私が言いたいのは、手料理の上手な女性をもてはやすなということではない。大いにもてはやすべきだとすら思う。ただ、それができない(しない)女に「女失格」のレッテルを貼らないでくれ、ということだ。
「作るの面倒だから寿司食べに行こうよ、寿司。払うから」
ジェーン・スーならこれができる。(カッコいい!)
しかしそんなきっぷの良さと財力のない私はどうすればよいのやら。
せいぜい「ファミレス行かない?」「コンビニでいいよね」くらいか。
これじゃ、女失格って言われてもしょーがない、かな。とほほ。