お、重い……。
出だしからほとんど最後まで壮絶ないじめの描写が続き、目を背けたいのに背けることもできずむしろ読むスピードは加速する。その間、重い気分はまったく抜けないどころかどんどん重たさを増していく。
おこなわれているいじめそのもの(内容)があまりに残酷だからでもあるのだけど、それ以上にいじめられている側の心情がしんどい。
この物語では、主人公(僕)と、同じクラスの女子生徒(コジマ)の二人がいじめにあっていて、とくにコジマの自己を正当する(しようとする)思考がきつい。
「それが神様でなくてもいいけれど、そういう神様みたいな存在がなければ、色々なことの意味がわたしにはわからなすぎるもの。(中略)そんななにもかもをぜんぶ見てくれている神様がちゃんといて、最後にはちゃんと、そういう苦しかったこととか乗り越えてきたものが、ちゃんと理解されるときが来るんじゃないかって、……そう思ってるの」
「ねえ、でもね、これにはちゃんとした意味があるのよ。これを耐えたさきにはね、きっといつかこれを耐えなきゃたどりつけなかったような場所やできごとが待ってるのよ。そう思わない?」
コジマはとにかく何にでも「意味」を付けたがる。
苦しみや悲しみにも必ず意味があって、わたし(たち)の弱さにも意味があり意志があるのだと何度も僕に言う。いじめられていることすら、わたし(たち)が“選んで”“受け入れている”ことだと。
人生80年だとしたらまだ始まったばかりともいえるくらいの年齢で、こんなふうに正当化して、承認しなければ耐えられないような日々があるのか……ポジティブシンキングっぽくも聞こえる発言の裏にくっきりと絶望的な現実が見えて、胸が痛む。
この、何にでも意味とか価値を見出そうとするのはよくある罠で、私も十代の頃から何度も落ちてきたし、未だに片足突っ込んだりしている。
今私が感じている苦しみに、意味はあるのか?
こんな思いをしてまで生きる意味はあるのか?
そんな人生(を生きている私)に価値はあるのか?
この罠に一旦嵌まると容赦なく飛んでくる疑問の矢。
苦しみや悲しみそれ自体にもその先にも意味なんてないと結論づけてしまったら、じゃあなんでそんなことに耐えなければならないのかと、新しい矢が降ってくる。だから意味がほしい。でも、一体どんな意味があるのか確固たる答えが出ない。本当に意味があるのか、価値があるのか、判然としないから不安になる。なかなか抜け出せない無限ループ。
コジマが「ちゃんと」「ちゃんと」と繰り返す度に、世の中には意味なんてないことはいくらでもあって、コジマもきっとそんなことは薄々気付いていて、でも、それを認めてしまったらどうやってこの一瞬を、そして一瞬一瞬の積み重ねである人生を乗り越えればいいのかわからないからそうするしかないのだろう、そう思った。
しかし私は、コジマのことを全面的に同情の目で見ることはできなかった。
「なんか嫌だな」という気持ちが出てきたのは、コジマが、斜視である僕に「君の目がすきだ」と言った中盤あたりから。
そこに私はコジマの厭らしさを感じ、本当に? という疑いが消えなくなってしまった。
みんなが気持ち悪いというものをわたしだけが理解し、受け入れているんです。わたしたちは仲間なんです。わたしだけがあなたの味方なんです。というメッセージは、意地悪に解釈すれば、だからあなたもわたしを理解し受け入れている仲間であり味方ですよね? という見返りの要求に読み取れる。もう一歩突っ込めば、わたしは他のみんなとは違う特別な存在だという誇示でもある。
だからコジマは、僕が斜視は手術で簡単に治ることを知り、手術をするか迷っていると打ち明けた途端、激昂したのだ。
「その目は、君のいちばん大事な部分なんだよ。ほかの誰でもない君の、本当に君をかたちづくっている大事な大事なことじゃない。(中略)君には生まれもったしるしがあって、だからわたしたちはこうやって出会えたのに、どうして君はそれをなくすなんて、そんなこと言えるの? 君にとってわたしたちが出会えたことは大事なことじゃなかったの?」
「君はうれしかったんでしょう? それを知ってうれしかったんじゃないの。本当は、その目を治して逃げたいと思ってるんじゃないの」
いじめの要因である目――ロンパリと呼ばれ、気持ち悪がられている――を治すことは、どう考えたって僕にとって良いことなのに、問題をすり替えて反対している。
コジマは僕の目が好きなのではなく、二人が同類であることの象徴としての斜視を保持したいんだろう。
畳みかけるように手術することは裏切りだと非難するコジマからは、自分だけが取り残されてしまう焦りが見える。
だから治さないでくれとは言えないだろうけど、「君のいちばん大事な部分」でありわたしはそれが「すきだ」と言い替えるのはすごく卑怯だ。
実際そう言われたことで僕は救われた気持ちにもなり、手術を迷いもしている。つまり弄ばれている。
「そしてわたしからも逃げたいと思っているんでしょう」
つい本心が漏れたようなこの台詞で、私が見ていた僕とコジマの間にある友情(もしかしたら愛情)のようなものが汚された気になった。
互いに互いの存在を支えとしなければ乗り越えられないことは多くあったとは思う。けれどそれは、達観した百瀬(いじめる側の同級生)のいうところの“たまたま”この二人の組み合わせだっただけで、二人が“本当の友達”かどうかはまた別の話、ということだ。
まあとにかく読後もずるずると重たさを引きずるような小説で、重たさついでにいえば、この感想を書いているタイミングで私自身にも「今やっていることに意味はあるのか」「こんなことを続けても無意味なんじゃないか」と思うようなことが起こっていて、だからか余計にコジマに厳しい内容になった。
最後にひとことだけ。
いじめは、なくならない。
だから、いじめはあるものという大前提で対処していかなければ事態は好転しない。
あまり乱暴に書きたくないので、この私見についてはまたどこかで文字数を割いて書く機会があれば整理したいと思っている。