乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#102 桐島、部活やめるってよ  朝井リョウ著

 

 

 高校生の、男子の、部活の、というだけで自分にはあまりにも遠くまた興味もない世界の話、どれだけ世間で流行ろうが映画化されようが読むことはない、という決めつけのなんと浅はかだったことか。

 同世代の同性の友人が「小説も映画も面白かった」と言っていたのに背中を押されて読んでみたのだけど、思いがけずヘヴィな球が飛んで来て、最初のイメージ(The青春!)はどこへやら。

 

 

 まず読んでいる間中、自分の高校時代を思い出さざるを得ない――しかも楽しかった記憶よりも、隠し持っていた自分の、あるいは同級生たちの本音の方だけを――から、終始心はさざめき、筋肉痛のような疲労感が残る。

 

 

 私は中高一貫の女子高出身なので、共学の高校生活というのはドラマや映画でしか知らない。つまり、虚構から得た情報にしか過ぎない。

 私にとって実在である女子高には女子高の、ヒエラルキーをはじめとする独特の面倒臭さがあって、その中で生き抜くには都度都度防御しつつ自分のポジションを確保するスキルを身に付けなければならなかった。

 女だけの明け透けな戯れの裏にある妬み嫉み、ボス猿のような女とその取り巻きが作る暗黙のルール、どのクラスにも一定数存在する最下層グループ……。

 最終的に私はそれらに嫌気がさして離脱した(群れることを止めた)けれど、距離をとりさえすればバラ色の学校生活というのでもなくて、楽しいことはだいたい学校の外にあった。

 

 

 この小説は共学高校が舞台だから、女子高的なドロドロなんてなくて、いいねえ若者! と合いの手を入れたくなるような爽やかな物語だと思っていたらとんでもない。

 

「部活」というキーワードすら忘れて、それこそ学園ドラマでお馴染みの「ただのクラスメイトだと思ってたアイツのことを気付けば目で追っている」とか「憧れの先輩に体育館裏で告白」とか、年ごろの男女がくっついたり離れたりする様を思い浮かべていた想像力の乏しさよ。

 男同士×女同士×異性間のしんどさがそれぞれつぶさに書かれていて、私がずっと漠然と抱いていた「共学の方が楽しそう(だから共学に行けばよかった)」という幻想は見事に打ち砕かれた。

 

 

 何これ、女子高よりキツいじゃん!

 

 

 人間関係は硝子細工に似ている。見た目はとてもきれいで、美しい。太陽の光を反射して、いろいろな方向に輝きを飛ばす。だけれど指でつっついてしまえばすぐに壊れるし、光が当たればそこら中に歪んだ影が生まれる。

 

 

 高校生って、なーんも考えてないようで、そうじゃないんだよなあ。

 自我もばっちり芽生えて、他人のことを分析できる能力も備わってきて、でもまだ大人でもなくて、中途半端な自分を持て余して、体も心も無駄を省くなんて発想もなく動きまくっていた時代――。

 

 

 インパクトのあるタイトルでありながら当の桐島は登場せず、彼の周りにいる5人の目線で書かれたものだということも話題になっていたが、中でもわりと地味な方の人物(沢島亜矢)の章でとても気になる箇所があった。

 

 ブラスバンド部の部長で、クラスでは上位でも下位でもない層に属し、一軍男子の中に好きな子がいても見ているだけで、女友達の一人(元・一軍の美人)が彼のことを好きだと言えば、「わたしも!」と言う代わりに「へーえ、応援するよ」と言ってしまう、普通中の普通みたいな女の子。

 彼女は、同じ部で仲の良い友達(詩織)のことも、元・一軍女子(志乃)のことも、自分自身のことも、ものすごく客観的に見ている。

 

 

 歩いて帰るのが好きだ、と詩織に告げたとき、じゃあ私も、と詩織も自転車通学をやめた。詩織にはそういうところがある。私は詩織のそういうところを、やさしい、と呼ぶことにしている。

 

 

 この、「やさしい、と呼ぶことにしている」という言い回し。

「やさしいと思う」ではなくて、「と呼ぶことにしている」というのはどういうことだろう。それがずっと気になっている。

 どうしても、「やさしい、と呼ぶことにしている。」の後には「本当は思ってないけどね。」のニュアンスがつきまとう。

 

 

 仮説:亜矢は、詩織のことをやさしいなんてこれっぽっちも思っていない。が、自分に合わせてくれた友達のことをやさしいと思えないのを認めると自己嫌悪に陥るので、やさしいと思いたい→「やさしい、と呼ぶことにしている」。

 

 勝手に立てた仮説を証明するために、実は亜矢が詩織に対してネガティブな感情を持っているような描写を探してみたけれど、引用箇所以外にそれを匂わせるところは無くて、ますます気になる。

 

 

 このモヤモヤ、何かに似ている?

 

 

 あれだ、あれ。どうでもいい人のことを、あの人いい人だよねっていうあれ。

 いい人=どうでもいい人、というのはもう通説になってしまっているけれど、やっぱり「あの人はどうでもいい人だ」と口に出すのは憚れるから結局「いい人」と呼ぶ。でもそこには心の底から出る好意以外の雑味が混ざっているから、モヤっとする。

 

  

 ってことは……詩織はやさしい、ではなくて……都合がいいだけ? もしかして、ちょっと鬱陶しい? 

  

 うーん。どう解釈すればいいのか、未だに答えは出ない。

 

  

 この言い回しに引っかからなければ、男子の体育(サッカー)の場面から浮かび上がる男社会の辛さとか、上位グループにいながら本音で語れない息苦しさに苛まれる女の子のこととか、「最上」に位置する男の子にもある憤りとか、もっともっと掘り下げていきたいところが山ほどあった。

 けれど、一つひとつが底なし沼のようで、足を踏み入れるには勇気と体力が必要で、時間もかかりそうだ。

 

 

 

 それでも私は、そんなにしんどいことだらけなら学校なんて行かなければいい、という考えにはならない。

 同じ年で、同じくらいの学力で、家庭の経済状態も幅はあってもかけ離れてはいない集団の中で、自分はどう立ち振る舞い、何を好み何を嫌い、何が許せなくて、何はどうでもいいのかが見えてくる。

 家という小さな箱の中では知り得ないことや、年齢の離れた大人(親を含む親族や近所の人)との関係では生まれない感情に気付く機会は学校にしかない。

 

 高校に行かなくても生きてはいけるし社会に出てから学んだっていいとも言えるけれど、十代という自意識の塊みたいな時期を、同じように破裂しそうな自意識を抱えた多数の人間とともに過ごすのは、やっぱり経験しておいた方がいい、少なくとも私は良かった、そう思う。

 友達ができてもできなくても、楽しくてもそうでなくても、壮絶な苛めや度を超えたハラスメントに遭っているのでなければ、行っておいて損はない。

 

 

 中学に行かないと公言した子どもYouTuberがいるようだが、馬鹿なのか? と思う。

 自分は他の子どもとは違うのだと思いたいだけなら、社会に物申しているつもりなら、そういう生き方が“自由”なのだと勘違いしているのなら、考え直した方がいい。

 まあ、彼が学校に行こうが行くまいが、将来どうなろうが、本当にどうでもいいんだけど。

 

 

 勉強は学校に行かなくてもできる、というのは間違いではない。

 でも、学校って、勉強する場という名目のもとに全然別のこと――いいことも、悪いことも――を習う場所だったんだと、学校なんて辞めてやる! とまで思ったことのある私でも今はわかる。