乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#106 何者  朝井リョウ著

 

 

 

 私は超氷河期と呼ばれる時代に就職活動をした世代。

 

 例に漏れずリクルートスーツを纏い髪を黒くし、自分を大きく見せる、少なくとも真面目で清潔で害のない人間であることを示し是非御社にとハキハキ喋る自分自身に強烈な違和感と不快感があって、面接直後に吐いたこともあった。

 

 なのに表面的にはそんな心情をこれっぽっちも出さずに取り繕い、一次面接から二次面接、最終面接、と駒を進めれば進めるほど、本当はその会社にさほど興味があるわけでもなく働きたい意欲もぼんやりとしていて中身は空っぽなのにという方がますます際立って、自己嫌悪に陥る悪循環。

 

就活がつらいものだと言われる理由は、ふたつあるように思う。ひとつはもちろん、試験に落ち続けること。単純に、誰かから拒絶される体験を何度も繰り返すというのは、つらい。そしてもうひとつは、そんなにたいしたものではない自分をたいしたもののように話し続けなくてはならないことだ。

 

 

 とはいえ、早いうちに卒業後の身の振り方を定めなければならない焦りもあるから、ぼけっと立ち止まってもいられない。

 

 私の場合は、幸い短い期間で内定を二つもらったところで就活自体には終止符を打ったのでひとつめの辛さはそこまで味わわずに済んだけど、今思えばなぜあの時もっと将来のこと、自分のしたいこと、本当に興味のあることを考えなかったのだろうかと振り返ることがよくある。

 

 

 まだインターネットなんて全然普及していなかった頃だから、情報量からして圧倒的に少なく、一般企業に入社する以外の道を探す手段もよくわからなかったのは事実。今のように、Google先生に一つ二つの単語を与えるだけで無数の情報を引き出せるなんて、魔法でしかなかった。つまり何かを知りたければ体を使う(自らの足で歩き、人に会い、尋ねる)しかないわけで、余程の情熱がなければそれには至らない。

 

 何しろ手書きのハガキを郵便で出して会社の資料を取り寄せるところから始めるというという、信じられないくらいアナログな作業をしていたのだ。

 それを思い出すと、イマドキの就活は楽チンで良いなあと羨んでいたのだけど、そうでもないなと、この小説を読んで痛感した。イマドキの就活生でなくて本当に良かった! と。

 

 これは、『桐島、部活やめるってよ』で、憧れだった共学高校にも過酷な現実があるのを知り、女子高より大変じゃん! と思ったのとまったく同じ。朝井リョウの見せてくるリアリティに私は尻込みし、自分がそこにいなくて良かったと安堵する。恐ろしや。

 

 

 私(の大学時代)とこの小説内の大学生で最も大きく違うのは、TwitterをはじめとするSNSの存在の有無だ。

 

 主人公や彼の周りにいる若者のほぼ全員が日常的にTwitterで呟いている(一人だけ、サワ先輩というSNSを使わない人が出てきて、“そういう人も稀にだがいる”というだけでほっとするのも、やはり私が非デジタルネイティブだからだろうか)。

 

 とにかくTwitterfacebookに上る短い文面で他人の活動が否が応にも垣間見えて、でもそれは切り取られた一部分でしかないから裏があるのではないかと邪推し、悪意的に解釈したり、焦らされたり、自分は自分で虚勢を張ったり、牽制し合う。止めどなく流れ続ける文字列に溺れそうになりながら就活という気力と体力の勝負を切り抜けるなんて、よほどメンタルが強くなければやっていけない。

 

 

 私はTwitterを使っていないせいか、不特定多数に向けてつぶやき、誰かのつぶやきを追いかけ、それとは別で裏アカまで作って本心を晒したりする欲望は理解できないのだけど、そうせずにはいられない、自分を保てない、またはそれが楽しくて仕方がないという人たちがいるのが、イマドキのスタンダードなのだろう。

 暇だから、孤独だから、ではなくて、身近に生身の話し相手がいてもなおその行為をまるで中毒のように日々繰り返すのは、私から見れば本来の孤独よりも孤独に感じるけれど。

 

 

 さて小説の中の就活生たちは、それぞれのスタンスで活動をしながら、「何者」かになろうとする。あるいは、活動に背を向けることでやはり「何者」かであろうとする。

 

 主要人物5人のキャラクターは見事にばらばらで、でも彼らの発信するものすべてが痛いしダサいし気持ち悪くて突っ込みどころ満載。

 中でも理香というやたらとハイテンションでポジティブな空回り系の女の子は際立っている。

 

RICA KOBAYAKAWA @rika_0927 5分前

みんなといっぱい喋って、いっぱい呼吸して、今日も良い一日だったなあ。つくづく思うけど、私はホントに人に恵まれている。今まで出会った人すべてに感謝。ありがとう、これからもよろしくね。お酒を飲んで真夜中散歩してたら、こんならしくないことを言いたい気分になっちゃった(笑)

 

 まあ見事に実のない内容と「すべてに感謝」で、私のイライラは止まらない。

 

 そもそも私は日本人の名前で「か行」をkではなくcで表記するのはRikacoの専売特許だと思っていて、以降出てきた芸能人でも一般人でもそれをする人に対してはセンスを疑う目で見ている。

 だからこの理香のアカウントがRICAである時点で嫌な予感はしていた。そして予感をはるかに超えてげんなりするツイートを上げ続け、しかし最後には必要悪だったというか、重要な役割を担っていて、やはり朝井リョウの意地の悪さ(褒め言葉)に唸ってしまう。

 

 

 それはさておき、だいぶ前に『夢を売る男』(百田尚樹著)の感想でも、世の中には本を出すことで「何者」かであろうとする人がこんなにもいるのかと驚いたというようなことを書いたけど、つくづくアイデンティティを確立することを人間は求めるものなんだと思った。

 

 私がそれを強く意識したのは就活期ではなく、もっとずっと後のことだった。

 

  年齢的にはもうじゅうぶん大人になってから、仕事を辞め、長い旅に出て、それこそどこの誰でもない、強いて言えば「日本人(の一人)」でしかなかった私。

 出会う人出会う人、みんなが確固たる「何者」かに見えて、自分だけが「何者」でもないように感じて、言いようのない不安を覚えた。

 

 けれど、さんざん「何者」かを考え続けて「何者」かになろうとした先には、結局「何者」でなくてもよい、という諦念でもあり開き直りでもあり、ある種の悟りのようなものであった。

 

「何者」でもないって、そんなに罪なの?    

 そんなふうに思えば、無理に何かになっていなくたって、不幸ではないことがわかる。

 

 

 それを向上心がない、覇気がない、と取る人もいるかもしれない。

 そういう人は、せいぜい「何者」かになるべく頑張ればいいと思う。