乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#107 高瀬舟  森鴎外著

 

 

 友人が「同時に嫌な話だなとも思った。」と感想を書いていて、どれどれと思い読んでみた。

 

 主人公の喜助は、重い罪を犯し島流し(遠島)にされる。

 彼は、これから始まる囚われの生活を思って打ちひしがれるわけでもなく、むしろ今まで送ってきた苦しい生活より全然マシ、と考えている。

 自由がないことなんて、衣食住がなく困ることに比べたら大したことではないというのは、まあ一理ある。

 

 喜助は、極悪非道の殺人犯として書かれていない。

 病気を苦にした弟の自殺幇助というか、懇願されてとどめをさし、死なせた。そんな彼に対して、友人のいうところの「喜助を聖なる者のように見ることに対する強烈な気持ち悪さ」は、私には湧かなかった。

 

 聖人とは思わないけれど、ぼんやりと『罪と罰』のラスコー(リニコフ)なんかより全然喜助は悪くない! と思った。

 

 

 罪を犯したくて犯したわけじゃないもんね。

 

 まんまとそう信じたところが、私の読みの甘さかもしれない。

 

 それは、もう一人の登場人物である、島まで舟で護送する役人みたいな人(庄兵衛)が喜助の話をこれっぽっちの疑いもなく信じ込み、感動すらしているのと同じだ。

 

 

 では疑いの目をもって読み直してみたら、どうだろう。

 そう思い、もう一度読んでみた。

 

 

庄兵衛はまともには見てゐぬが、始終喜助の顔から目を離さずにゐる。そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返してゐる。それは喜助の顔が縦から見ても、横から見ても、いかにも楽しさうで、若し役人に對する氣兼がなかつたなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌ひ出すとかしさうに思はれたからである。

 

 おいおい、ちょっと待て。と、ここで思った。

 島流しに遭うにはご機嫌すぎるじゃないか。罪人らしい神妙な、苦渋に満ちた表情でないどころか、口笛とか鼻歌なんて、健全な人間だってそこまで気分がいいことは、そうそうない。

 

 

 たまらず庄兵衛は喜助に何を思っているのかと問う。

 すると喜助は、これまで自分のしてきた貧しい暮らしを語り、それが牢に入ったら食べる物に困らないどころか出る時には今まで手にしたことのないような現金をもらえ、ありがたいのだと答える。

 

 

喜助は世間で爲事を見附けるのに苦んだ。それを見附けさへすれば、骨を惜まずに働いて、やうやう口を糊することの出来るだけで満足した。そこで牢に入つてからは、今まで得難かつた食が、殆ど天から授けられるやうに、働かずに得られるのに驚いて、生れてから知らぬ満足をえたのである。

 

 私はこれを、清貧な人の知足だと、結局聖人のように見ていたのだが、穿った眼で見ればなんのことはない、足るを知るのではなく楽して得することを知っただけのことともいえる。

 

 

 それからもう一つ疑いを持つとすれば、弟が死ぬ(殺す)場面での兄弟のやり取りの長さがある。

 

 100%喜助の話を信じるのならば、病気で働けず兄に迷惑をかけている弟が自殺を図り、喉を切ったが死にきれず、「刃を抜いてくれたら死ねるから、手を借してくれ」と頼むから、泣く泣くそれを抜いたのだ。ということなのだけど、それにしても弟の台詞が喉に刃が刺さっているとは思えないくらい饒舌なのだ。

 

 

 本当にこんなに喋ったの?

 

 

 本当ならば安楽死させたということで、殺人とは違う気色を含むし、作り話だとしたら喜助は相当なワルだ。

 

 

 ここまで違った解釈ができてしまうという驚き。しかも真相はわからない。よくできたミステリだったのだと、二度読み終わった今、思う。

 

 

 一方、庄兵衛は最後まで疑いを持たず、喜助のしたことを人殺しというのかと腑に落ちずにいる。

 

庄兵衛の心の中には、いろいろに考へて見た末に、自分より上のものの判断に任す外ないと云ふ念、オオトリテエに従ふ外ないと云ふ念が生じた。

 

 オオトリテエという聞き慣れない言葉がまた、庄兵衛の心にある引っ掛かりそのもののように違和感を残す。

 オオトリテエ=authority=権威に丸投げして終わるといういかにもお役人らしい落とし方を、森鴎外は皮肉として書いたのか、はたまた我々庶民とは遠いところ、上(うえ)→かみ=神のみぞ知るという謎めかしとして書いたのか。というのは、さすがに深読みしすぎだろうか。

 

 

#106 何者  朝井リョウ著

 

 

 

 私は超氷河期と呼ばれる時代に就職活動をした世代。

 

 例に漏れずリクルートスーツを纏い髪を黒くし、自分を大きく見せる、少なくとも真面目で清潔で害のない人間であることを示し是非御社にとハキハキ喋る自分自身に強烈な違和感と不快感があって、面接直後に吐いたこともあった。

 

 なのに表面的にはそんな心情をこれっぽっちも出さずに取り繕い、一次面接から二次面接、最終面接、と駒を進めれば進めるほど、本当はその会社にさほど興味があるわけでもなく働きたい意欲もぼんやりとしていて中身は空っぽなのにという方がますます際立って、自己嫌悪に陥る悪循環。

 

就活がつらいものだと言われる理由は、ふたつあるように思う。ひとつはもちろん、試験に落ち続けること。単純に、誰かから拒絶される体験を何度も繰り返すというのは、つらい。そしてもうひとつは、そんなにたいしたものではない自分をたいしたもののように話し続けなくてはならないことだ。

 

 

 とはいえ、早いうちに卒業後の身の振り方を定めなければならない焦りもあるから、ぼけっと立ち止まってもいられない。

 

 私の場合は、幸い短い期間で内定を二つもらったところで就活自体には終止符を打ったのでひとつめの辛さはそこまで味わわずに済んだけど、今思えばなぜあの時もっと将来のこと、自分のしたいこと、本当に興味のあることを考えなかったのだろうかと振り返ることがよくある。

 

 

 まだインターネットなんて全然普及していなかった頃だから、情報量からして圧倒的に少なく、一般企業に入社する以外の道を探す手段もよくわからなかったのは事実。今のように、Google先生に一つ二つの単語を与えるだけで無数の情報を引き出せるなんて、魔法でしかなかった。つまり何かを知りたければ体を使う(自らの足で歩き、人に会い、尋ねる)しかないわけで、余程の情熱がなければそれには至らない。

 

 何しろ手書きのハガキを郵便で出して会社の資料を取り寄せるところから始めるというという、信じられないくらいアナログな作業をしていたのだ。

 それを思い出すと、イマドキの就活は楽チンで良いなあと羨んでいたのだけど、そうでもないなと、この小説を読んで痛感した。イマドキの就活生でなくて本当に良かった! と。

 

 これは、『桐島、部活やめるってよ』で、憧れだった共学高校にも過酷な現実があるのを知り、女子高より大変じゃん! と思ったのとまったく同じ。朝井リョウの見せてくるリアリティに私は尻込みし、自分がそこにいなくて良かったと安堵する。恐ろしや。

 

 

 私(の大学時代)とこの小説内の大学生で最も大きく違うのは、TwitterをはじめとするSNSの存在の有無だ。

 

 主人公や彼の周りにいる若者のほぼ全員が日常的にTwitterで呟いている(一人だけ、サワ先輩というSNSを使わない人が出てきて、“そういう人も稀にだがいる”というだけでほっとするのも、やはり私が非デジタルネイティブだからだろうか)。

 

 とにかくTwitterfacebookに上る短い文面で他人の活動が否が応にも垣間見えて、でもそれは切り取られた一部分でしかないから裏があるのではないかと邪推し、悪意的に解釈したり、焦らされたり、自分は自分で虚勢を張ったり、牽制し合う。止めどなく流れ続ける文字列に溺れそうになりながら就活という気力と体力の勝負を切り抜けるなんて、よほどメンタルが強くなければやっていけない。

 

 

 私はTwitterを使っていないせいか、不特定多数に向けてつぶやき、誰かのつぶやきを追いかけ、それとは別で裏アカまで作って本心を晒したりする欲望は理解できないのだけど、そうせずにはいられない、自分を保てない、またはそれが楽しくて仕方がないという人たちがいるのが、イマドキのスタンダードなのだろう。

 暇だから、孤独だから、ではなくて、身近に生身の話し相手がいてもなおその行為をまるで中毒のように日々繰り返すのは、私から見れば本来の孤独よりも孤独に感じるけれど。

 

 

 さて小説の中の就活生たちは、それぞれのスタンスで活動をしながら、「何者」かになろうとする。あるいは、活動に背を向けることでやはり「何者」かであろうとする。

 

 主要人物5人のキャラクターは見事にばらばらで、でも彼らの発信するものすべてが痛いしダサいし気持ち悪くて突っ込みどころ満載。

 中でも理香というやたらとハイテンションでポジティブな空回り系の女の子は際立っている。

 

RICA KOBAYAKAWA @rika_0927 5分前

みんなといっぱい喋って、いっぱい呼吸して、今日も良い一日だったなあ。つくづく思うけど、私はホントに人に恵まれている。今まで出会った人すべてに感謝。ありがとう、これからもよろしくね。お酒を飲んで真夜中散歩してたら、こんならしくないことを言いたい気分になっちゃった(笑)

 

 まあ見事に実のない内容と「すべてに感謝」で、私のイライラは止まらない。

 

 そもそも私は日本人の名前で「か行」をkではなくcで表記するのはRikacoの専売特許だと思っていて、以降出てきた芸能人でも一般人でもそれをする人に対してはセンスを疑う目で見ている。

 だからこの理香のアカウントがRICAである時点で嫌な予感はしていた。そして予感をはるかに超えてげんなりするツイートを上げ続け、しかし最後には必要悪だったというか、重要な役割を担っていて、やはり朝井リョウの意地の悪さ(褒め言葉)に唸ってしまう。

 

 

 それはさておき、だいぶ前に『夢を売る男』(百田尚樹著)の感想でも、世の中には本を出すことで「何者」かであろうとする人がこんなにもいるのかと驚いたというようなことを書いたけど、つくづくアイデンティティを確立することを人間は求めるものなんだと思った。

 

 私がそれを強く意識したのは就活期ではなく、もっとずっと後のことだった。

 

  年齢的にはもうじゅうぶん大人になってから、仕事を辞め、長い旅に出て、それこそどこの誰でもない、強いて言えば「日本人(の一人)」でしかなかった私。

 出会う人出会う人、みんなが確固たる「何者」かに見えて、自分だけが「何者」でもないように感じて、言いようのない不安を覚えた。

 

 けれど、さんざん「何者」かを考え続けて「何者」かになろうとした先には、結局「何者」でなくてもよい、という諦念でもあり開き直りでもあり、ある種の悟りのようなものであった。

 

「何者」でもないって、そんなに罪なの?    

 そんなふうに思えば、無理に何かになっていなくたって、不幸ではないことがわかる。

 

 

 それを向上心がない、覇気がない、と取る人もいるかもしれない。

 そういう人は、せいぜい「何者」かになるべく頑張ればいいと思う。

 

 

#105 QJKJQ  佐藤究著

 

  

 天才か!

 

 

 初めて読む著者の、タイトルだけでずっと気になっていたこの本をようやく手にして思うのは、時空とか記憶をぐにゃりと歪めてくるような物語を書けるのは、星の数ほどいる小説家の中でも限られたごくわずかな人だけが持つ才能だということ。

 

 私は、自分の生きている(と思っている)現実にリンクするような小説を好んでよく読むし、仮に何か物語を書けと言われたら、やはりそういうものしか書けないと思う。

 否、それだって才能は要ることで、現実をどこまでも的確に厳密にしかも芸術的に言語化する能力を持つ小説家というのは本当にすごい。

 けれど、それは練習である程度できるような気がするし、そのすごさの要素は結局どれだけ多くの人に「あるある」を感じさせるか、所謂「共感」されるかに依るところが大きい。

 

 

 歪みのある物語というのはそういうすごさとは全く違う。

 むしろ共感とは程遠いところにあって、不可解さに満ち、尚且つ人を引き込む。

 

 

 ナニコレ。よくわかんない。でも続きが気になる!

 

 

 本書でいえばタイトルのアルファベットからして謎を孕んでいて、きっと何かの暗号だろう、だからミステリなのだろうと、勝手に思っていたら全然違った。

 確かに殺人は行われるし謎だらけなんだけど"事件"の"犯人"を捜す話ではない。

 

 ネタバレにもならないので言ってしまえば、トランプのQueen Joker King Joker Queenの頭文字で、並びに意味はあるものの、やはり謎はつきまとう。

 

 帯は帯で「私の家族は全員、猟奇殺人記。」だなんて、鬼気迫るインパクトだし、まんまとジャケ買いしちゃうよ、これは。

 

 

 それでいて内容も、決して見かけ倒しではない意外な展開を仕掛けて来る、となればもう天才かよとしか言葉にならないのだ。

 

 

 

 古代ローマの世界。

 元老院に逆らった者――最上位には皇帝も――には、究極の刑罰として、ダムナティオ・メモリアエが下される。

 記憶の破戒、という意味だ。その人物が生きた記録や痕跡の、ありとあらゆるものが「なかったこと」にされてしまう。(中略)

 罪を償う罰を受けて記憶されるのではなく、完全に消えることで罰せられる。なかったことに。

 

 

 愛の対義語が憎しみではなく無関心であるのと同じで、究極の刑罰が記録の破戒、存在の抹消というのは納得できる分だけ切なく想像するだけで苦しい。

「悪者」として存在することも許されず、誰からも認められない、なのに生きている。

 

 これは、最近読んだ『何者』(朝井リョウ著)にも通ずるところがあって、Twitterで止めどなく流れるあらゆるつぶやきが、「なかったこと」になりたくない人々が必死で残そうとする痕跡に思える。いいね! と言われたいだけでなく、炎上しようが批判されようがアンチがいようが、いない=何者でもないよりは全然いい。そんなふうに自分を繋ぎとめる悲痛な叫びに。

 

 

 

 心にずしんと響く名著ではない。何度も読み直す話でもない。けれど、凡人が天才の脳内を分けてもらって、仮想と現実の曖昧な世界へ連れていかれる。それがこんな安価でいいのだろうかと思うほどに濃密な時間。だから読書はやめられない。

 

 

 

#104 「こだわり」を捨てる  小林信源著

 

  

 思い返せばこの数年の間、慢性的な鬱状態が続いていた。

 心の不調がイコール鬱ではないし、すぐに「鬱だ鬱だ」と診断する医者、あるいは自称する人は危険だし信用できない。

 と、基本的にはそう思っていたのだけれど、鬱“状態”であることは自分でも認めざるを得ないくらい不安と緊張に苛まれていた。

 

 不安がある時ほど内面で起こっていることをメモしておく習慣が私にはあるので、その頃の闇ノートには、なぜ、何に、どういう角度で、心がぎゅっと絞られるのかがびっしり書かれている。

 また、不安そのものだけでなく付随して自分を苛立たせる物(者)への不満や、そこからいかにして離れればいいのかあれこれ対処しようとしている様も剥き出しに綴っているので、とても人に見せられたもんじゃない。

 

  コロナが発生したことも重なって闇ノートの闇はより濃く暗くなっていった。

 ただ、鬱状態はコロナ以前から始まっていたことで、コロナは内省を深めるきっかけにしかすぎない。

 

 心と体は繋がってるから当然体にも不調が表れる。寝つきが悪い、寝ても眠りが浅い、胃が痛い、お腹を下す、他人のたてる物音に過敏になる、数え上げたらきりがないくらいの症状が出ていた。

 心の面でいえば、何にも関心が持てない、楽しいと思えることがほとんどない、人と話すのが億劫である、希望が持てず虚無感が強い、などとにかくよろしくない。

 

 

 本書は、こういった暗いトンネルから抜け出すにはどうすれば良いのかを九つのステップで示している。とくに、不安に襲われている時の心(意識)を、不安が不安を呼ぶ「入れ子構造」として説明しているところはとてもわかりやすく腑に落ちた。

 

 

不安な自分の心をもう一人の自分の心が眺めて、「なぜなんだ、なぜおまえはそんなに不安なのだ?」と語りかけ問いかけることで、ますます不安になっていくという仕組みです。不安の原因に対して不安を抱くのではなく、不安に思っている自分の心に対して不安を抱くのです。

 

 不安で仕方がない真っ只中にいたら、そうそうそうそう、これ私! と「誰かにわかってもらえた」思いになるだろうし、少し過ぎた時点から見れば、「あの時の私」を俯瞰で見直す参考になる。

 たまたま友人が送ってくれたのが後者のタイミングだったので、私にとっては今刺さるというよりは、近い過去を振り返るのに丁度いい参考書になった。

 

 

 で、概ねなるほどと頷きながら読んだわけだけど、第3章(世間の常識にこだわらない――破法遍)の事例として出てくるK君とのやり取りにはちょっと引っかかるものがあった。

 

 K君は、将来に漠然とした恐れを持ち、不眠症からパニック障害を起こして著者(住職)のお寺にやって来た青年。彼は、周りの友達はバリバリ仕事をしているのに自分は会社も辞めなければならず、それでも妻子を養わなければならず、人生のどん底にいると思っている。

 

 そのK君と山に登った時に、著者はこう言う。

 

「苦しいほうを取れ。きつい道を選びなさい。きっとそちらのほうが何か得るところがあるはずだ。楽な山道を歩いていたら、自然薯は見つからなかった。人生も同じ。あの道かこの道に行くべきか。本気で迷ったときは、自分にとって苦しい道のほうを選ぶべきだ。これが破法遍の教えなのだよ」

 

 

 これはもうさすがに古いよね? と、即座に思った。

 

 この本が書かれたのは2002年だから、仕方がないといえば仕方がない。

 まだ「苦労は買ってでもせよ」的な考え方が信仰され、人々はせっせと働き、稼ぎ、良い暮らしをしたいと望んでいた時代。

 既に新卒で入った大企業をあっさり辞めて、行き当たりばったりみたいな暮らしをしていた私は、周りの大人たちからはさんざんな批判的な言葉を浴びせられていたっけ。

 険しい道にこそ学ぶものがあるという昭和の耐え忍ぶ文化、演歌の世界で生きてきた彼らの世代が社会の中心だった頃には、著者の言葉もマッチしていただろう。

 

 

 でも今は2021年、風の時代ですから(笑)

 

 神は乗り越えられない試練はお与えにならないとは言うが、日常生活に支障を来すくらい苦しいのなら、そして他にも選択肢があるのならば、さっさと道を変えてもいいはずだ。

 

 敢えて苦しい方を、というのは日本人が好みそうな逆説的美学だし、確かにそこで得られる経験値とか進歩とか何かしらの力とかはある。

 

 

 けれど、なんたって風の時代なんです(笑)

 

 

 風の時代って言いたいだけかい!

 

 

 昨年の終わり頃からメディアやSNSでやたらと囁かれているこのワードを、実は一回使ってみたかった(笑)

 

 私は実際に地の時代から風の時代になることよりも、それを語る人の表情の方に興味が湧く。

 

 さあ始まりますよ! と声高に唱える人がいるかと思えば、風の時代? 何それ? と無頓着な人もいて、捉え方は千差万別。

 

 個人的には、ちょっと笑いを含んでいるくらいがちょうどよく、自分で使う場合もやっぱり(笑)付きになってしまう。

 決してバカにしているわけではなくて、でも真顔でもいられない、心のどこかでまあまあまあまあ、と距離を取らせるような響きがある。

  

 これまでの価値観を全否定するのも、新しい時代に移り変わることに拒絶反応を示すのも、どちらもしっくりこない。

 

 というのも、何の時代とか関係なく私はずっと生きづらさを感じると同時にできるだけ生きづらくない方向・方法を模索してきた。はっきり言って、何時代でも関係ないのだ。

 

 

 だから、風の時代だと大騒ぎするのは、どういうニュアンスでも私にとっては物珍しく映り、見ていて面白い。

 

 

 横道に逸れたが、楽なほうを選ぶことも時に必要だと、私は今実感としてあるので、K君のような人に、家族のためにもそこに留まるべし、とは思えない。

 

 

 なんて、すっかり心身の健康を取り戻したかのように言っているけれど、第7章(「治った」と思ったときは、まだ治っていない――知次位)にはまだまだ油断はできないなと思い直すことが厳しく書かれていた。

 

「いまだ得ざるを得たると言う」

 

 最近の私は、胃が痛くなるような出来事のない日常を慈しみ、快眠快便のありがたみを噛みしめ、些細な幸福感を取りこぼさないように生きている。

 が、本当に自然体であれば、そんなことすら意識をしないのだという。

 つまり私は今「知次位」の段階で、完全に治った「真位」の手前にいることになる。

 

 

「知次位を知る」

 

 

 はしゃがず。騒がず。自己言及への「こだわり」を捨てる。これが当面の目指すところだと、久しぶりに開いたノートを見ながらそう思った。

 

 

 

 

#103 エクスタシー  村上龍著

 

 

 物語のはじまりはとても大事だ。

 

 漫才でいうところの「つかみ」というやつと同じで、出だしでぐっと引き込まれるか否かでその先ののめり込み方が全然違ってくる。

 

 その観点でいうと、この小説の「つかみ」は最高だと思う。

 

 

ゴッホがなぜ自分の耳を切ったか、わかるかい?」

 とそのホームレスの男は僕に日本語で話しかけてきた。

 

 

 冒頭の唐突な台詞。発しているのはホームレス。しかも場所は、NY。

 

 自らを「普通の人間」と認める主人公の人生が、ここから狂い出す。

 

 

 二杯目のティオ・ペペを飲みながらゲームソフトに似ているのかなと思った。今この国に何千何百とあるRPGロールプレイングゲーム)、あの有名な「ドラゴン・クエスト」のようなものだ、(中略)などと考えていたら僕自身が気味の悪いゲームに入り込んでしまったように思えてきてわからなくなった、さっきからわからないわからないと呟いているが解析するとすぐ何がわからないのかわかる、わからないものに導かれてワクワクしている自分のことがわからないのだ。

 

 何かが始まったことで戸惑いと興奮を覚える主人公のこの感覚を、読者は同時に感じることができる。

 危険な匂いを察しながら強烈に引き寄せられ、まさに冒険に出る勇者のような気持で先へ進むしかない。

 

 そうして気付けば冒険は、カタオカケイコという謎の女の長い長い語りの中で繰り広げられ、更にヤザキのこれもまた長い語りに移り変わっていく。

 

 句点(。)がなかなか現れず読点(、)ばかりで延々続く台詞に小さな不安が生まれ、それでも目は先を追いうことを止められず、その時もうすでに私は彼らの精神世界に潜り込んでいる。

 

 

 キーワードはセックス(SM)とドラッグ(エクスタシー)。

 どちらも出てくるだけで拒否反応を示す人もいるだろう。それは仕方がないけれど、先入観だけで拒絶するのは勿体無いと思う。この小説は、読む者をムラムラさせるエロ小説ではないし目を背けたくなる暴力的な話でもない。

 

 セックスもドラッグも、「人格」を崩すためのツールであり、ゲームなのだ。

 なぜそんなことをするのか? 快楽、唯それだけのため。

 

みんな誤解しているがサディズムっていうのは女を苛めて喜ぶことじゃないんだ、一枚ずつ、衣装を脱ぐように、恥を上手に剥いでやって、女を欲しくて欲しくて死にそうにしてやった上で放置して、人格を奪う、それが最高に楽しいんだよ、

 

 

 東京(ケイコ)―NY(ヤザキ)―パリ(レイコ)を往き来しながら、冒険はどんな結末を迎えるのか。

 ここには書かないが、始まりにも負けず劣らずセンセーショナルなラストで、この時代の村上龍のタフなエネルギーを改めて感じる終わり方だ。

 

 

 そう、この作品も何度目かわからないくらいの再読なのだけど、これを読む度に思い出す人がいる。

 

 ちょうど20年前、同じ会社にいた、10歳年上の男性。

 私のマゾヒズム、といっても性的嗜好の意ではなく、つまり鞭で打たれたり縄で縛られて快感を得るということではなく、もっと精神的な、たとえば自分で苦痛を強いた後に快楽を用意しておくような性質を、そんな話をしなくても直観的に見抜いていたその人は、とても上手に私を操り、私は溺れていた。

 

 彼がヤザキというホームレスに重なり、私はケイコでもレイコでもないけれどヤザキに人格を奪われる女の中の一人になって、あの若かった一時期がフラッシュバックする。

 

 私たちがいた会社には、なぜか社内恋愛禁止という謎の掟があって、最終的に私はクビになった。

 酔っ払って手を繋いで新宿ゴールデン街をよれよれ歩いている私たちを目撃した隣の部署のワタナベという男が密告してそういうことになったのだが、「なぜ女の私だけが(処分を受けるのか)!」という疑問も怒りもなく、あっさり転職して彼とも会わなくなった。

 

 もしかしたら、無意識レベルで深みに嵌まり過ぎたら戻れなくなると察知していたのかもしれない。二人の間のいざこざで別れるよりも、間抜けな理由で終わりにしておいて良かったと、今でも思う。

 

 記憶の中のその人は、私の深いところに潜む本質に触れた唯一の人として、今も美しく残っているから。

 

 

 

 

【映画】キッチン  

 

 

 原作は吉本ばななのデビュー作であり一躍有名作品にもなった小説『キッチン』。

 リアルタイムで小説は読んだけど内容は全く覚えていなくて、映画も観たと思っていたのにやっぱり記憶はあやふや。

 

 

 時は80年代後半。

 この時代ならではのキッチュなファッションやヘアスタイルは当時小中学生だった私が大好きだったOSAMU GOODSやセーラーズ、漫画『アイドルを探せ』などを彷彿とさせ、それだけでテンションが上がるし、三つ出てくる家のインテリアも、昭和レトロ、トレンディドラマ調、森のペンション風、とそれぞれの懐かしさがある。

 

 

 主人公・みかげを演じるのは川原亜矢子さん。

 今でこそロングヘアの美しいマダムのイメージだけど、この映画では蝶になる前のさなぎのような初々しさ。

 

 多分まだ二十歳やそこらで、サラダきのこみたいなおかっぱ刈り上げ頭に全く手を入れていないナチュラル眉毛が可愛らしい。

 同僚の女の子(浦江アキコさん)と仕事帰りに飲みに行くシーンでは、バレー部の中学生みたいな二人が女子トークをしながらファンタオレンジではなくビールをごくごく飲むそのギャップに一瞬えっ?!と驚いてしまった。

 

 

 そしてこの映画の見どころは、何といっても橋爪功さんが演じる絵理子さん。

 ホームドラマのお茶目なお父さんとか、のほほんとした上司の役がぴったりな橋爪さんが、こんなオカマ役をやっていたなんて! という意外性を感じた直後にもうこの絵理子さんのことが大好きになってしまうのだからすごい。

 

 派手な花柄のガウンを纏ってバブリーな部屋中をひらひらと動く姿は一見コミカルなのだけど、泣きそうになるくらい優しいのだ。

 

 たとえば、朝ご飯を食べている絵理子さんに、「お水持ってきます」とみかげが席を立てば、「今飲みたいと思ってたの!」と大きな声で、心の底から嬉しさを表す絵理子さん。こんな最大級の「ありがとう」を言える人、なかなかいない。

 

 

 正直言うことが誠実だと私は思わない。何を言うか選ぶセンスが誠実なのよ。

 

 

 私は正直であることにわりと重きをおいて、また、良くも悪くも正直にしか生きられない人間だと自分で思ってきた。そこに欠点もあれば美学もある。

 

 そんな私の信条(とまでいうと大袈裟)を180度ではなく90度でえぐってきたこの台詞が、最後まで心に残った。

 正直さを否定するのではなく、けれどただ正直ならいいわけではない、もちろん嘘を言うことが是でもない、言葉を選ぶセンスだ、というのは私に足りないことの一つをずばり言い当てられた不思議な気持ち良さがある。なんだろう、この快感は。

 

 

 前に挙げた「今飲みたいと思ってたの!」も、完全にセンスだ。と、後になって思う。

 

 本当に今まさに飲みたいと思っていたかどうか(=正直さ)は問題ではなくて、自分のために水を持ってきてくれる人に感謝をすることが全て(=センス)で言葉を選べばこうなるというお手本そのものだ。

 コップに水を汲むのは些細なことかもしれないけれど、他愛もない局面だからこそセンスが試されるのだろう。

「ありがとう」「嬉しい」でもいいところを、さらに上を行く「今飲みたかった」だなんて、完璧すぎる。このひと言に絵理子さんの魅力がぎゅっと、ぎゅぎゅーっと凝縮されているように感じた。

 

 

 と同時に、私なら何も考えずに「あ、今は大丈夫」とか言ってしまいそうだわ、と反省する。

 

 

 相手を傷つけるつもりがあってもなくても、いつも「本当のこと」を言うのがベストではない。

 

 

 このことは、ここ数年の間に考えているテーマの一つで、正直ついでに告白すれば、私は数えきれないくらい正直さによって人を傷つけてきた。

 

 不快に思っていればそれを隠すことをせず、時には故意に伝え、核心をついてダメージを与え、しかも「本当のことを言ったまで。何が悪いの?」と正当化していた。

 

 若気の至りといってしまえば済むようなことでもあるかもしれないけれど、若けりゃいいってものでもないし、私はもうそこまで若くない。

 優しい人になりたいのだ。センスを、自分のためじゃなく、相手のために使える優しい人に。

 

 

 映画のあらすじはさておき、そんなことを思った。

 

 

 

#102 桐島、部活やめるってよ  朝井リョウ著

 

 

 高校生の、男子の、部活の、というだけで自分にはあまりにも遠くまた興味もない世界の話、どれだけ世間で流行ろうが映画化されようが読むことはない、という決めつけのなんと浅はかだったことか。

 同世代の同性の友人が「小説も映画も面白かった」と言っていたのに背中を押されて読んでみたのだけど、思いがけずヘヴィな球が飛んで来て、最初のイメージ(The青春!)はどこへやら。

 

 

 まず読んでいる間中、自分の高校時代を思い出さざるを得ない――しかも楽しかった記憶よりも、隠し持っていた自分の、あるいは同級生たちの本音の方だけを――から、終始心はさざめき、筋肉痛のような疲労感が残る。

 

 

 私は中高一貫の女子高出身なので、共学の高校生活というのはドラマや映画でしか知らない。つまり、虚構から得た情報にしか過ぎない。

 私にとって実在である女子高には女子高の、ヒエラルキーをはじめとする独特の面倒臭さがあって、その中で生き抜くには都度都度防御しつつ自分のポジションを確保するスキルを身に付けなければならなかった。

 女だけの明け透けな戯れの裏にある妬み嫉み、ボス猿のような女とその取り巻きが作る暗黙のルール、どのクラスにも一定数存在する最下層グループ……。

 最終的に私はそれらに嫌気がさして離脱した(群れることを止めた)けれど、距離をとりさえすればバラ色の学校生活というのでもなくて、楽しいことはだいたい学校の外にあった。

 

 

 この小説は共学高校が舞台だから、女子高的なドロドロなんてなくて、いいねえ若者! と合いの手を入れたくなるような爽やかな物語だと思っていたらとんでもない。

 

「部活」というキーワードすら忘れて、それこそ学園ドラマでお馴染みの「ただのクラスメイトだと思ってたアイツのことを気付けば目で追っている」とか「憧れの先輩に体育館裏で告白」とか、年ごろの男女がくっついたり離れたりする様を思い浮かべていた想像力の乏しさよ。

 男同士×女同士×異性間のしんどさがそれぞれつぶさに書かれていて、私がずっと漠然と抱いていた「共学の方が楽しそう(だから共学に行けばよかった)」という幻想は見事に打ち砕かれた。

 

 

 何これ、女子高よりキツいじゃん!

 

 

 人間関係は硝子細工に似ている。見た目はとてもきれいで、美しい。太陽の光を反射して、いろいろな方向に輝きを飛ばす。だけれど指でつっついてしまえばすぐに壊れるし、光が当たればそこら中に歪んだ影が生まれる。

 

 

 高校生って、なーんも考えてないようで、そうじゃないんだよなあ。

 自我もばっちり芽生えて、他人のことを分析できる能力も備わってきて、でもまだ大人でもなくて、中途半端な自分を持て余して、体も心も無駄を省くなんて発想もなく動きまくっていた時代――。

 

 

 インパクトのあるタイトルでありながら当の桐島は登場せず、彼の周りにいる5人の目線で書かれたものだということも話題になっていたが、中でもわりと地味な方の人物(沢島亜矢)の章でとても気になる箇所があった。

 

 ブラスバンド部の部長で、クラスでは上位でも下位でもない層に属し、一軍男子の中に好きな子がいても見ているだけで、女友達の一人(元・一軍の美人)が彼のことを好きだと言えば、「わたしも!」と言う代わりに「へーえ、応援するよ」と言ってしまう、普通中の普通みたいな女の子。

 彼女は、同じ部で仲の良い友達(詩織)のことも、元・一軍女子(志乃)のことも、自分自身のことも、ものすごく客観的に見ている。

 

 

 歩いて帰るのが好きだ、と詩織に告げたとき、じゃあ私も、と詩織も自転車通学をやめた。詩織にはそういうところがある。私は詩織のそういうところを、やさしい、と呼ぶことにしている。

 

 

 この、「やさしい、と呼ぶことにしている」という言い回し。

「やさしいと思う」ではなくて、「と呼ぶことにしている」というのはどういうことだろう。それがずっと気になっている。

 どうしても、「やさしい、と呼ぶことにしている。」の後には「本当は思ってないけどね。」のニュアンスがつきまとう。

 

 

 仮説:亜矢は、詩織のことをやさしいなんてこれっぽっちも思っていない。が、自分に合わせてくれた友達のことをやさしいと思えないのを認めると自己嫌悪に陥るので、やさしいと思いたい→「やさしい、と呼ぶことにしている」。

 

 勝手に立てた仮説を証明するために、実は亜矢が詩織に対してネガティブな感情を持っているような描写を探してみたけれど、引用箇所以外にそれを匂わせるところは無くて、ますます気になる。

 

 

 このモヤモヤ、何かに似ている?

 

 

 あれだ、あれ。どうでもいい人のことを、あの人いい人だよねっていうあれ。

 いい人=どうでもいい人、というのはもう通説になってしまっているけれど、やっぱり「あの人はどうでもいい人だ」と口に出すのは憚れるから結局「いい人」と呼ぶ。でもそこには心の底から出る好意以外の雑味が混ざっているから、モヤっとする。

 

  

 ってことは……詩織はやさしい、ではなくて……都合がいいだけ? もしかして、ちょっと鬱陶しい? 

  

 うーん。どう解釈すればいいのか、未だに答えは出ない。

 

  

 この言い回しに引っかからなければ、男子の体育(サッカー)の場面から浮かび上がる男社会の辛さとか、上位グループにいながら本音で語れない息苦しさに苛まれる女の子のこととか、「最上」に位置する男の子にもある憤りとか、もっともっと掘り下げていきたいところが山ほどあった。

 けれど、一つひとつが底なし沼のようで、足を踏み入れるには勇気と体力が必要で、時間もかかりそうだ。

 

 

 

 それでも私は、そんなにしんどいことだらけなら学校なんて行かなければいい、という考えにはならない。

 同じ年で、同じくらいの学力で、家庭の経済状態も幅はあってもかけ離れてはいない集団の中で、自分はどう立ち振る舞い、何を好み何を嫌い、何が許せなくて、何はどうでもいいのかが見えてくる。

 家という小さな箱の中では知り得ないことや、年齢の離れた大人(親を含む親族や近所の人)との関係では生まれない感情に気付く機会は学校にしかない。

 

 高校に行かなくても生きてはいけるし社会に出てから学んだっていいとも言えるけれど、十代という自意識の塊みたいな時期を、同じように破裂しそうな自意識を抱えた多数の人間とともに過ごすのは、やっぱり経験しておいた方がいい、少なくとも私は良かった、そう思う。

 友達ができてもできなくても、楽しくてもそうでなくても、壮絶な苛めや度を超えたハラスメントに遭っているのでなければ、行っておいて損はない。

 

 

 中学に行かないと公言した子どもYouTuberがいるようだが、馬鹿なのか? と思う。

 自分は他の子どもとは違うのだと思いたいだけなら、社会に物申しているつもりなら、そういう生き方が“自由”なのだと勘違いしているのなら、考え直した方がいい。

 まあ、彼が学校に行こうが行くまいが、将来どうなろうが、本当にどうでもいいんだけど。

 

 

 勉強は学校に行かなくてもできる、というのは間違いではない。

 でも、学校って、勉強する場という名目のもとに全然別のこと――いいことも、悪いことも――を習う場所だったんだと、学校なんて辞めてやる! とまで思ったことのある私でも今はわかる。