乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#32 百年泥  石井遊佳著

 

「インド」「日本語教師」という二つのキーワードから何人かの知人友人に「読んでみて」とお薦めされていた本。というのも、私が何度もインドを訪れては1ケ月~半年の滞在をしていることと、インドではないが外国で日本語教師をしているからだ。

 

 著者も南インドの都市チェンナイで日本語教師をしていて、この小説の主人公もその設定だということは芥川賞受賞発表の映像を見知っていたので、私自身、気にはなっていた。

 

 しかしこれもなかなか行きつけの古書店には出てこなくて待ちあぐねていたのだけれど、休暇で滞在中のインドで再会した方が「持ってるよー」と貸してくれてあっさり入手成功!

 

  ということで、すぐさま読み切った感想を。

 

 

 まず全体的には、説明が多いなという印象。

 日本ではないところが舞台にるなっている場合、一つひとつの描写に「ここでは~」「これは○○するためのもので~」というガイドがないとそこへ行ったことがない人にとっては思い浮かべるのが難しかったり誤読してしまうため、というのはわかっていても、ある一定量を越えるとちょっと邪魔に感じてしまう。

 

 ごくごく短い例を挙げれば、インド人が「OK」の意味で首を斜めに傾ける仕草。

 日本人なら、YES(OK)=首を縦に振る/NO(OKじゃない)=横に振る、というのが一般の認識なので、ちょうどその間みたいに傾げられると「どっち???」と混乱を招く。

 それを避けようとすれば、「くびをかたむけてみせた受付嬢」だけでは足りず「オーケーのしるしにくびをかたむけてみせた受付嬢」と修飾する必要が出てくる。

 

 そういった些細な説明がインド人の習慣のみならず、地理と気候、町の様子、食べ物や飲み物など何かと日本と違うものに、また日本語教師の仕事内容にもくっついてくると、私にとってはトゥーマッチであった。

 

 日本語教師の仕事についてさらにいえば、この業界内では普通に(頻繁に)使わざるを得ない言い回しーーネイティブからすると不自然な日本語ーーがよく出てくるのだが、小説として文字で読むとむずむずする違和感があった。

 同業者ですらそうならば、他業種の人たちから見たらどうなんだろう。むしろ気にならずスルーなのだろうか。

 

 

 御託はこのくらいにして。

 

 物語の方は、なりゆきでチェンナイにあるIT企業で日本語教師をすることになった女性「私」が主人公。

 

 チェンナイに赴いて3カ月、まだまだ慣れないインド生活と資格も経験もない状態で始まった日本語教師の仕事に悪戦苦闘している真っ只中、百年に一度の大洪水に遭う。

 その三日後に見たのは、氾濫を起こしたアダイヤール川に百年の月日をかけて溜まった大量の泥。

 ねっとりとむれた匂いを放つ泥の中から、断片的に「私」の過去が現れる。

 

「私」の記憶だけではない。其処此処にいる人々の思い出、いなくなったはずの誰か、失くした物が、次から次へと顔を出す。

 

 

かつて綴られなかった手紙、眺められなかった風景、聴かれなかった歌。話されなかったことば、濡れなかった雨、ふれられなかった唇が、百年泥だ。あったかもしれない人生、実際は生きられることがなかった人生、あるいはあとから追伸を書き込むための付箋紙、それがこの百年泥の界隈なのだ。

 

 

 そうかと思えば、上空には翼をつけた特権階級のインド人が飛翔通勤している。

 個人的にはファンタジーっぽくて好みではなかったけれど、泥から出てくる数多の物/者とあわさってインドの輪廻転生思想を秀逸に表現していると思った。

 

 

 現在過去未来~♪

 

 

 インドというどでかい国をひと言で表すのはとうてい無理な話。

 でも強いていうならば……カオス!

 

 日本は良くも悪くも整然とした国だなあと、一歩外へ出れば混沌の拡がるここインドで改めて認識した。

 

 それはともかく、私が最も好きなのは最後の一コマ。

 

 クラスの中にデーヴァラージというものすごい美形の生徒がいる。

 彼は日本語レベルは高いが扱い方が難しく何かと「私」を困らせているのだけれど、ともすれば恋が芽生えそうな予感もなくはない。

 それを敢えてベタな展開をさせず実に淡泊に終わっているのが、良い。

 

 倣って淡々と終わらせるために、この件は、これ以上は書かない。