『人間失格』ほどではないけど、学生時代に何回か読んだ作品。
「斜陽族」という言葉があったと母から聞いたことをなぜかずっとおぼえている。
そういえば昭和には「カウチポテト族」とか「竹の子族」とか「ひょうきん族」とか、いろんな族がいたもんだ。
その斜陽族の語源ともなった斜陽とは没落した上流階級のことを指し、文体もその名残りのようにたおやかな優雅さで満ちている。
「やわらかな景色ねえ」
とお母さまは、もの憂そうにおっしゃった。
「空気のせいかしら。陽の光が、まるで東京と違うじゃないの。光線が絹ごしされているみたい」
と私は、はしゃいで言った。
お金がなくなって東京の家を売るしかなく、伊豆へ隠居のように引っ越した母と娘(私・かず子)であるが、落ちぶれ感はゼロ。
「光線が絹ごし」なんて表現、庶民の私の口からは絶対に出てこない。
で、このかず子お嬢様なんだけど……危うさが一線を越えてちょっとヤバい。
これまでは、弟・直治(ずっと、この人が太宰自身だと勘違いしていた)の過度なデカダンばかりが印象に残っていたが、今回は絹ごしかず子に目が釘付け。
ことのはじまりは六年前。
かず子は、直治(ヤク中)にせびられた金を、彼が師と慕う上原という小説家に預けに行った。
一歩さきにのぼって行く上原さんが、階段の中頃で、くるりとこちら向きになり、素早く私にキスをした。私は唇を固く閉じたまま、それを受けた。
べつに何も、上原さんをすきでなかったのに、それでも、その時から私に、あの「ひめごと」が出来てしまったのだ。
この、妻子がありながらふわふわ生きている男の気まぐれなキス一回が後に乙女を狂わせる。
物語の中盤、突如かず子から上原へ宛てた手紙が続くのだけれど、それが『ルビンの壺が割れた』(宿野かほる著)のキモい男と重なり、心がざわざわと乱れ始める。
まず「ひめごと」から六年も経ってから急に長い手紙を送りつけている点。これは、大学時代の恋人をSNS上で探し出しメッセージを送る男と同じで、何かの拍子にたがが外れた衝動を感じる。
かず子の場合、没落生活にもようやく慣れてきたところへ爆弾を抱えた直治が帰ってきたことが引き金になったのだと思うが……。
それで、私、あなたに、相談いたします。
私は、いま、お母さまや弟に、はっきり宣言したいのです。私が前から、或るお方に恋をしていて、私は将来、そのお方の愛人として暮らすつもりだという事を、はっきり言ってしまいたいのです。そのお方は、あなたもたしかご存じの筈です。
第一の手紙でいきなり相談をはじめる距離感の狂いに驚く。
それ以上にこわいのは、「或るお方」といっているのが実は上原のことで、その本人にしれっと「あのお方は私をどう思っているのでしょうか」と問うているところ。かず子、大丈夫か。
しかも結局我慢できなくなったのか最後には「それはあなたです」と明かす不安定な情緒。
読点の多さにその異様さが出ていて、まるで茶番のようなお嬢様の暴走が、こわい。
返事がないのは当然だ。
しかしそんなことはお構いなし。めげることなく次の手紙を送る図太さもルビンの男と共通している。
二通目では、自分にだって求婚してくる男性はいるのだと気を引こうとする手口を使いつつ、あなたの赤ちゃんがほしいとねだる。もはやホラー。
さらにルビン男が執拗に相手の住所を訊ねていたように、かず子も上原を伊豆の自宅へ来るよう誘いを掛け続ける。
こちらに、いらしゃいません?
手紙の結びにちょっとした思い付きかのように軽く滑り込ませている手法もまったく同じで、本当に鳥肌が立ちそう。
そして三通目。
うれしくて、うれしくて、すうっとからだが煙になって空に吸われて行くような気持ちでした。おわかりになります? なぜ、私が、うれしかったか。おわかりにならなかったら、……殴るわよ。
元貴族の仮面の下にある狂気が見えた瞬間。
「光線が絹ごし」と呟いた同じ口から出る「殴るわよ」の対比が凄い。
ルビンでいえば、宛名が急にファーストネームだけに変わったときのぞっとした感じを思い出す。
もう恋と革命どころじゃないよ、私の頭は!
こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。
(中略)
それは、私の生れた子を、たったいちどでよろしゅうございますから、あなたの奥さまに抱かせていただきたいのです。そうして、その時、私にこう言わせていただきます。
「これは、直治が、或る女のひとに内緒に生ませた子ですの」
こわいこわいこわいこわい。失うもののない女の思い込みと執念は、こわい。