新進作家と呼ばれた二十六、七の頃の自身を振り返りった自伝的作品。
それはちょうど矢田津世子と出会い恋をした時期と重なる。が、話は矢田津世子との純愛一本というわけではなく、あちこちに女が出てきてまあチャラいこと。
モノクロ写真でしか知らない作家というのは、しかめ面して原稿用紙に向き合っている気難しそうな人物をついイメージしてしまいがちだけど、そのころ、全く、馬鹿げた、良い気な生活に明けくれてゐた。とあるように、仲間と酒を飲み女と遊ぶ話が明け透けに綴られている。
いきつけの店で誰某と女給二人をつれて飲めば、誰がどっちを気に入ったとか、女とやったとかやれなかったとか、今でいう合コンのノリそのもの。で、その女給の一人が安吾に惚れる。安吾はさほど興味はないのだが、実はその娘は中原中也のお気に入りで、中也が安吾にとびかかってきたなんていうエピソードまでついてきて。
オイ、お前は一週に何度女にありつくか。オレは二度しかありつけない。二日に一度はありつきたい。
私のイケメンランキング(文士編)でTOP3に入る中原中也が、こんなことを言っていたなんて!
物静かで気高い王子キャラだと思ってたのになんかショック。見た目とは裏腹に肉食男子だった中也に、周囲の女子はギャップ萌えしていたのかしら。
と、こんな感じで夜な夜な飲み歩くうちに安吾は矢田津世子と出会うわけなのだが、取り分け彼女のこととなると趣が違ってくる。
まず驚いたのが、矢田津世子とは最後まで肉体関係がなかったという告白。
私はたゞ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかつた。接吻したことすら、恋し合ふやうになつて、五年目の三十一の冬の夜にたゞ一度。
(中略)
そして、その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会ひたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなつたから、そして、私自身の肉体が厭になつたから、と。
え……?
これだけ読むとまったく理解ができない。
五年も付き合って、初めてキスをして、その直後にわけのわからない理由で別れの手紙を送られて、はいそうですかとなるわけがない。
が、なんと矢田津世子とは本当にそれきり会わず、数年後彼女は肺結核のため死んでしまった。
こんなことってあるのかと安吾のこじらせ具合に驚いたが、この顛末に至るには矢田津世子とW氏という既婚者の関係が絡む複雑な思いがある。また、作家同士であるが故の歪みもあったようだ。それにしても「肉体が怖い」という表現は、いかにも文学青年らしい言い草だと思う。
私が矢田津世子と結婚する。すると、むしろ、私達は、彼女とWにハッキリ対立してしまふ。結婚すれば、私は勝ちうる。果して、勝ちうるであらうか。私はむしろ、対立と、自分の低さ、位置の低さを自覚するばかりではないか。
私は然し、そのやうに考へてゐたわけではない。そのやうに考へることの必要が、必要すらも、欠けてゐたのだ。即ち、私は、すでに結婚をあきらめてゐた。
要するに安吾は、矢田津世子の中で自分がW氏と同等の位置に格上げされ並べられれば逆に自分の低さを感じることになり、そうはされたくなかった。これは男のプライドなのか、安吾独特の潔癖なのか。
矢田津世子を恋して以降も、中也と吉原へ行ったり女給とふらりと旅に出たりだらしないことをしているくせに、彼女とW氏の件には頑なに拘っているのが私には解せない。
男は浮気をする生き物だからしょうがない、けれど女の不貞は看過できないという男性が世の中には結構いるようだけど、安吾にもそれに似た意識があったのだろうか。矢田津世子が特別な存在であればあるほど、潔白さを求めてしまうのか。
次々と疑問が湧き釈然としない読後感のまま『三十歳』を読んでみようと思う。