乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#78 野菊の墓  伊藤左千夫著

 

 

 心の汚れてしまった大人全員に、これを読んで浄化しなさいとお薦めしたい。

 

 よく、小説でも映画でも「絶対泣ける!」みたいな余計な触れ込みがくっついているやつがあるけれど、私はその手のもので泣くことはない。そもそもそんな煽り文句を見た時点で、ありがちなお涙頂戴モノかと冷めてしまうのでだいたい読まない(観ない)し、うっかり目にした場合は大衆と自分の感動ポイントのずれを認識するばかり。

 

 だからといって、私は天邪鬼なところはあるとしても血も涙もない鬼ではない。

 世界のどこかで何かを叫ばなくても、もっと地味に、ちょうどこの『野菊の墓』のような小説であっさり涙腺は緩む。

 

 

 主人公(僕・政夫)と民子は従姉同士で、今民子は政夫の母の看護兼家事手伝いのため同じ屋根の下に暮らしている。

 幼い頃から親しい関係の二人であったが、近頃は周囲がうるさくなってきて、あの二人は仲が良すぎる、このままではいけない、と監視の眼が家の中でも外でも光っている。

 

 従姉は結婚だってできるんだし別にいいじゃんと思っていたら、見るに見かねた母親から、え、そこ!? という厳しいお咎めが。

 

男も女も十五六になればもはや児供ではない。お前等二人が余り仲が好過ぎるとて人がかれこれ云うそうじゃ。気をつけなくてはいけない。民子が年かさの癖によくない。これからはもう決して政夫の所へ行くことはならぬ。吾子を許すではないが政は未だ児供だ。民やは十七ではないか。つまらぬ噂をされるとお前の体に疵がつく。政夫だって気をつけろ……。来月から千葉の中学へ行くんじゃないか」

 

 女の民子が、十五歳の政夫より二歳年上である点がどうもいけないらしい。

 今の私の感覚でいえば十五も十七も「ものすごく若い」という括りで年上も年下もないのだけど、とにかくこの時代のこの家庭に於いては女が年上であってはいけなかったのだろう。

 

 が、皮肉なことに、外野からの過剰な干渉がかえって無垢だった本人たちを焚き付け互いを意識するきっかけとなり、二人が恋の卵を育てれば育てるほど締め付けは強まるという悪循環が始まってしまう。(この、恋を卵に喩えるところもすごく良い。)

 

 

「政夫さん、なに……」

「何でもないけど民さんは近頃へんだからさ。僕なんかすっかり嫌いになったようだもの」

 民子はさすがに女性で、そういうことには僕などより遥に神経が鋭敏になっている。さも口惜しそうな顔して、つと僕の側へ寄ってきた。

「政夫さんはあんまりだわ。私がいつ政夫さんに隔てをしました……」

 

 

 これは私が十代の頃にもあった、クラスメイトから冷やかされるととくべつ好きでもなかったはずの異性が気になってしまい何となく上手に話せなくなってしまうあの感じ。ストレートに好きだなんて言わないけれど、そうとわかる言動がちらちら見えるのが本当に初々しくてたまらない。

 

 とはいえ顛末は、タイトルの通りハッピーエンドではない。

  

 誰も悪くない、悪者に見える人にも理由や意図があってのことでやっぱり悪くない、なのに結果としてみんなが暗い気持ちになることは、生きていたら必ずある。それも良い経験だとか学びがあるのだとか、そんなおためごかしで正当化することはできない、絶対に望ましくない出来事は、残念ながらあるのだ。

 

 

 何でもかんでも自由を訴え、全てではないけれど手に入れることができる、少なくとも自由という概念があってそれを欲しがることができるのは、幸せなことだと思う。

 けれど、不自由を不自由とも知らずに甘んじるしかないからこそ生まれるこんなにも美しく哀しいストーリーは、自由の中には存在しない。

 

 

 原始時代でも縄文時代でもない、たった百年ちょっと前の若い男女の切ない恋は、自由ばかりを求める私の心にきゅうと沁みて、強欲を洗い流してくれた気がする。