物語のはじまりはとても大事だ。
漫才でいうところの「つかみ」というやつと同じで、出だしでぐっと引き込まれるか否かでその先ののめり込み方が全然違ってくる。
その観点でいうと、この小説の「つかみ」は最高だと思う。
「ゴッホがなぜ自分の耳を切ったか、わかるかい?」
とそのホームレスの男は僕に日本語で話しかけてきた。
冒頭の唐突な台詞。発しているのはホームレス。しかも場所は、NY。
自らを「普通の人間」と認める主人公の人生が、ここから狂い出す。
二杯目のティオ・ペペを飲みながらゲームソフトに似ているのかなと思った。今この国に何千何百とあるRPG(ロールプレイングゲーム)、あの有名な「ドラゴン・クエスト」のようなものだ、(中略)などと考えていたら僕自身が気味の悪いゲームに入り込んでしまったように思えてきてわからなくなった、さっきからわからないわからないと呟いているが解析するとすぐ何がわからないのかわかる、わからないものに導かれてワクワクしている自分のことがわからないのだ。
何かが始まったことで戸惑いと興奮を覚える主人公のこの感覚を、読者は同時に感じることができる。
危険な匂いを察しながら強烈に引き寄せられ、まさに冒険に出る勇者のような気持で先へ進むしかない。
そうして気付けば冒険は、カタオカケイコという謎の女の長い長い語りの中で繰り広げられ、更にヤザキのこれもまた長い語りに移り変わっていく。
句点(。)がなかなか現れず読点(、)ばかりで延々続く台詞に小さな不安が生まれ、それでも目は先を追いうことを止められず、その時もうすでに私は彼らの精神世界に潜り込んでいる。
キーワードはセックス(SM)とドラッグ(エクスタシー)。
どちらも出てくるだけで拒否反応を示す人もいるだろう。それは仕方がないけれど、先入観だけで拒絶するのは勿体無いと思う。この小説は、読む者をムラムラさせるエロ小説ではないし目を背けたくなる暴力的な話でもない。
セックスもドラッグも、「人格」を崩すためのツールであり、ゲームなのだ。
なぜそんなことをするのか? 快楽、唯それだけのため。
みんな誤解しているがサディズムっていうのは女を苛めて喜ぶことじゃないんだ、一枚ずつ、衣装を脱ぐように、恥を上手に剥いでやって、女を欲しくて欲しくて死にそうにしてやった上で放置して、人格を奪う、それが最高に楽しいんだよ、
東京(ケイコ)―NY(ヤザキ)―パリ(レイコ)を往き来しながら、冒険はどんな結末を迎えるのか。
ここには書かないが、始まりにも負けず劣らずセンセーショナルなラストで、この時代の村上龍のタフなエネルギーを改めて感じる終わり方だ。
そう、この作品も何度目かわからないくらいの再読なのだけど、これを読む度に思い出す人がいる。
ちょうど20年前、同じ会社にいた、10歳年上の男性。
私のマゾヒズム、といっても性的嗜好の意ではなく、つまり鞭で打たれたり縄で縛られて快感を得るということではなく、もっと精神的な、たとえば自分で苦痛を強いた後に快楽を用意しておくような性質を、そんな話をしなくても直観的に見抜いていたその人は、とても上手に私を操り、私は溺れていた。
彼がヤザキというホームレスに重なり、私はケイコでもレイコでもないけれどヤザキに人格を奪われる女の中の一人になって、あの若かった一時期がフラッシュバックする。
私たちがいた会社には、なぜか社内恋愛禁止という謎の掟があって、最終的に私はクビになった。
酔っ払って手を繋いで新宿ゴールデン街をよれよれ歩いている私たちを目撃した隣の部署のワタナベという男が密告してそういうことになったのだが、「なぜ女の私だけが(処分を受けるのか)!」という疑問も怒りもなく、あっさり転職して彼とも会わなくなった。
もしかしたら、無意識レベルで深みに嵌まり過ぎたら戻れなくなると察知していたのかもしれない。二人の間のいざこざで別れるよりも、間抜けな理由で終わりにしておいて良かったと、今でも思う。
記憶の中のその人は、私の深いところに潜む本質に触れた唯一の人として、今も美しく残っているから。