四十肩、老眼、閉経。
この3つが、目下私の個人的な激熱トピックスである。
肩、というより上腕(右腕のみ)に痛みが現れたのは一年ほど前のこと。
はじめは原因不明の筋肉痛のようなものだと思って放っておいたが、これがなかなか治らない。それどころか痛みの範囲が広がり、もはや気のせいでは済まないくらいに主張してくる。
しかし常に痛いというわけでもなくて、ほとんどの時間は忘れている。で、ある角度に入ると「ぁうっ」と変な声が漏れるくらいの激痛が走る。
一番痛かったのは、高いところに張った洗濯ロープにタオルを掛けようと、軽くジャンプするくらいの勢いで腕を伸ばした時。なんじゃこりゃ、というくらいの疼きだった。
それがまぎれもなく「老化」が原因の、いわゆる四十肩だと知った時のショックよ。
老眼に関しては、今のところ専用の眼鏡を買うには至っていないが、もう時間の問題だという予感はある。
年の離れていない姉が、一昨年のある日「ついにシニアグラスを買った」とLINEしてきたときから、予感が実感になってきた。
シニアグラスだなんて、売春をパパ活って言い替えてまろやかにしてるのと同じで”老眼鏡”でしょ! と思いながら、自分ももうすぐそれなしでは生きられなくなるのかと、少し落ち込んだ。
閉経は、老眼より少し先にあるものだという認識でいるけれど、個人差があるものだし、早ければ私の年齢でももうあり得ない話ではない。
子供は産まないとはっきりしてからは、私にとって生理というのはただ煩わしいだけの無用の現象なので、早く解放されたいと、その日を心待ちにしている。
生理前のイライラ、異様な食欲、生理痛などの一般的な生理問題はもとより、布ナプキンの使用が定着してから(何度も挑戦と挫折を繰り返した末)は、それを洗うのが面倒で仕方がない。
生理がないことを、即ち女として終わりだみたいな言い方をする人もいるが、そうは思わない。
生理があってもなくても、女として枯れている人もいれば、いくつになってもバリバリの満開! という林芙美子の小説に出てくるような女性だっている。
自分がどちらかは置いておいて、とにかく今か今かと待ち構えている私は、この本をよし先人の経験から予習しておこうと、手ぐすねを引くとはこういうことだといわんばかりに張り切って読んだわけだ。
本来ならば、最も身近な経験者は母であり、あれこれ教えを乞いたいところなのだけど、我が母ときたら、更年期障害→無自覚 四十肩→無し 閉経→四十過ぎで子宮筋腫の手術をしたから無関係 という、最強のアラフィフだったからお話にならない(いつからか老眼鏡は持ち歩くようになっていたけど、それもかなり遅かったように思う)。
そして本書も、結論からいえば、私の期待していたような参考書ではなかった。
べつに閉経のことばかり書いていたわけじゃないが、どんなテーマを書いていても、根本には閉経前後の女のからだがあった。老いていく自分と、いろんなものとの関係があった。すべて新鮮でおもしろかった。そしてその中心にあったのが閉経だった。
あとがきにはこうあるが、「閉経のことばかり書いていたわけじゃない」どころかほとんどの話が閉経の話ではなく、年齢的にそれを経た人の日常を綴ったエッセイだった。
具体的にいえば、アメリカの家庭と日本にいる父親(途中でお亡くなりになる)の家を往き来するルーティンで起こる両方の家族のことと、ズンバにはまったことがしつこく書かれている。
独り身の私にとっては、三人の娘がどうしたああしたなんて、子供の写真で年賀状を送られてきたような気持にしかならない。
ひがみとか妬みではない。友人ですらない他人の子供のことって、こういっちゃなんだけど本当にどうでもいい。
強いていえば、“老いた親とともに老いゆく我が身”という構図は少し先の未来を見るようでもあったけど、それにしてもタイトル詐欺じゃん。と、騙されたような気持の方が大きい。
まあ暇つぶしに読むには面白くないこともない、そんな本だった。