いい家族だなあ。
この小説を読んでそう感じる人がどれだけいるかわからないけれど、私はそう思った。
主人公・ちひろは生まれた時から病弱で、両親は娘の体を良くするために新興宗教に入信する。
宗教に入ろうという意思があったわけではなく、なかなか治らない娘の湿疹に効くと言われた“水”に頼り始めることが入口となっているだけで、根底にあるのはずっと「愛」だ。
それがじょじょにエスカレートしていってしまうのはやはりある種の「狂い」とも言えるには言えるが、大の大人が真面目な顔で水に浸したタオルを頭にのせている様はおかしみすら誘う。
そもそも愛と狂うことはほぼ同義。
ただひたむきな彼らを、誰が「怪しい」「気持ち悪い」とジャッジできようか。
しかし実際はこの家族を嫌悪する人達がたくさん出てくる。
クラスメイトやその親、教師までも、「あの子と遊んではいけない」と口に出したり態度に出したりして、ちひろを傷つける。
そして家族の一員であるちひろの姉・まーちゃんは、もっとも身近な被害者として、誰よりも自分の両親を忌み嫌う。
そんな中で、ちひろの友人であるなべちゃんの態度が実に見事だ。
クラスとか職場とか、ランダムに振り分けられた集団の中に異分子=新興宗教の信者(あるいはその家族)が混ざっているのがわかった時、その人とどう関わるかはいくつか選択肢がある。
一つは、なるべく関わらないこと。これが最も無難なやり方だろう。
もう一つは、異質の者として排除しようとする方法。
それから、普通に接しようとはするが気を遣い過ぎて腫れ物に触るような関わり方もある。
なべちゃんの場合はそのどれでもなく、ものすごく公平に、ちゃんと関わっている。
「ひと口ちょうだい」
わたしはペットボトルを差しだした。小学生のころからなべちゃんは何度もこの水を飲んだことがあった。そのたびにまずいといった。
「まずい」
やっぱりいった。
おそらく他のクラスメイトから見れば「怪しい水」なのに、なべちゃんは普通に「ちょうだい」と言う。そして、まずければまずいと言う。
水を飲むだけでなく、訊いてはいけないようなことも訊きたければ訊く。
「しょうこさんって人もだまされてたりして」
「それは絶対にない」
あの海路さんや昇子さんが誰かにだまされているところなんてまったく想像できない。それとは逆に、海路さんにだまされたと被害を訴えている女の人がいる、といううわさをこれまで何度か耳にしたことがあるくらいだ。もちろん、どれもたちの悪いうわさ話だ。
(中略)
「あんたはどう?」ときいてきた。
「なにが」
「だまされてるの?」
「わたし? だまされてないよ」
そのあと妙な沈黙があった。
わたしはなぜだか少しのあいだ固まってしまった。
なべちゃんはなにもいわずにボールペンを握り直すと、作文用紙に目を落とし、再び作業に取りかかった。
こんなふうに、打算も保身も何のバイアスもない態度を中学生の年齢でできるなべちゃん。
私がちひろなら、どれだけなべちゃんに救われるだろうかと、ちひろに代わってありがとう! と大声で言いたくなる。
新興宗教云々抜きにして、こんな友が一人でもできたら人生捨てたもんじゃないと思えるに違いない。
言いにくいことを言って傷つけないように思いやるのが友情なのか。反対に、言いにくいことも包み隠さず言うのが友情なのか。どちらもそうだし、どちらも違うのか。
ちょうどちひろやなべちゃんの年齢の頃、いやもっと年を重ねてからも私はいろいろ考えた。
そして未だにも思春期みたいな思考が頭をよぎる(『奇貨』参照)私は、なべちゃんのようになりたいのだ。