この小説を読んだのはもう何年も前のこと。なのに、感想を書いては消し書いては消し、なかなか完結できずにいて、書き終えてからもずっと保存状態のままになっていた。
以下の内容を発信することに躊躇いがないわけではなく迷ったけれど、炎上するようなブログでもなし、これだけの後味を残した作品(についての長考)は放置したくない。そう思い、自分にしかわからない内容になるかもしれないことを承知で、それでも一応言葉を選びながら記録しておくことにした。
まず読後の複雑な思いの核にあるのは、ぞっとするような気味の悪さ。
三部構成のⅠからⅡにわたって描かれているヒトがヒトと恋愛をしなくなり無機質な家族を作っていく世界もさることながら、最終章(Ⅲ)の「実験都市・楽園(エデン)」での光景が、強烈な不快感と拒否感を残したまま物語は終わる。
エデンでは人工授精による出産が緻密に管理されていて、生まれた子は住民全員の「子供ちゃん」であり大人は老若男女問わず「おかあさん」として同じ表情で薄く笑うロボットみたいな子らを分け隔てなく育てている。
恋愛はおろかセックスも婚姻制度もジェンダーもない(=消滅)世界というわけだ。
「そうそう、そうやって可愛がってあげてください。『子供ちゃん』に、『自分は人類の子供として、世界から愛されている』という感覚を与え続けるのが、私たち『おかあさん』の大切な仕事なんですから」
主人公・雨音(あまね)は、夫(合理的に夫婦関係を結んだ相手)とともに実験都市に移り住んだのだが、目の前に繰り広げられる世界に戸惑いを隠し切れない。
私はぞっとした。これではまるで、均一で都合のいい「ヒト」を制作するための工場ではないか。
この雨音の感じている「ぞっと」する感覚こそが、私の持ったおののきと同じ種類のものだ。
しかし所詮小説の中のパラレルワールド。
そう高を括っていたのだが、この世界があながち非現実ではないと脅かされるようなことがあった。
それは、あるインターネットテレビ局のニュースチャンネルで「選択的シングルマザー」を取り上げているのを観た時のこと。
この小説から受けた不快感が再び私を襲った。
選択的シングルマザーというのは、離婚や死別ではなく意志的に未婚で子を持つ女性を指す。
その選択をする理由は、結婚制度に疑問がある、恋愛はしない(アセクシャルである)が出産はしたいなど様々で、遺伝子上の父親にあたる男性はパートナーだったり友人に頼んだり、海外で精子を買うようなケースもあるらしい。
先にいっておくと、私は、生き方の多様性はあった方がいいと思っているしその選択自体には何の異論もない。
べつに出産するのに何がなんでも結婚している必要性はないし結婚してれば良い(酷い父親でもいた方が良い)というものでもないので、むしろ未婚の選択はあって然るべき。
しかし当事者や他のコメンテーターの話を聞いているうちに、彼らの望む世界がまるでエデンのように思えてきて絶句した。
要するに、産みたいから産みますけどこんな社会ですから私だけでは支えきれないし私にだって色々やりたいことがあるのでそこはみなさん察してご協力くださいね、という押し付けがましいご都合主義がちゃっかりと計算されているのだ。
本音を包み隠さず吐き出せば、「少子化を無視した冷酷でけしからん奴だ」と捉えられかねないから全部は書かない。けれど私はその風潮に、そしてこういうことを書くにあたってやたらとエクスキューズしていることに、心底うんざりしている。
一つだけはっきり言っておくと、エデンのようにシステムとして「社会全体で子供を育てよう」みたいなことに私は乗っかるつもりはない。
誰も彼もが“子供ちゃんのおかあさん”になりたいわけではないのに、意思確認もなくざっくり自分も「全体」に含まれるのはごめんだ。
これだけでも反論があるのだろうが、それならば、そもそもなぜ少子化では駄目なのか、産めよ増やせよで人口が増加しすぎたら問題はないのか、この小さな国にそんな土地はあるのか、仕事はあるのか、増えた子どもが高齢化したらどうなるのか、すべてを説明してからどうぞ、と思っている。
ああもう言い出したら止まらない。
本当はもっと切り込んでいきたい気持ちもあるが、“クレイジー”と評される著者の描く世界が“一周回ってこっちが正常”になるかもしれない未来について、これ以上は深堀しないでおく。