小説では「いい家族だなあ」と思えた主人公の両親が、映画だと違って見えた。
娘のことを思い、娘のために良いと勧められた水をただ信じているのは同じだし、生真面目に水で浸したタオルを頭に乗せている姿は滑稽でもありいじらしくもあるのだが、彼らが心配しているのは娘の「体」だけで、心の方に目が向いていない。
食欲がないと言えば、熱があるのではないか、風邪をひいたんじゃないかと大慌て。なのに、娘の悲しみや落ち込みの原因には気付かない。
仮にその水の効果が確かなものだとしても、妙な宗教に入信し、外でも頭に水を垂らし合う行為が人に知られたら娘がどういう扱いをされるか思い当たりそうだし、もしかしたらそのことで傷つけられているのではないかと想像するのはそんなに難しくないはずだ。
現に、母親の兄は、一般的な大人代表としてはっきりと彼らのしていることを否定している。
世間の目とはそういうものだと、この両親にだって理解できるだろう。
あるいは宗教とは関係なく、思春期ならよくある進路や友人関係や恋愛の悩みがあるのではないか、そんな単純な発想にすらこの両親は至らない。
盲信、というのがまさに「盲」であるのがよくわかる。
父親は永瀬正敏さん、母親は原田知世さんという豪華すぎるキャストなんだけど、小さな画面ではすぐに気付かないくらいそこらへんにいそうなおじさんとおばさんに見えるのがすごい。
とくに永瀬さんといえば、私立探偵濱マイクやザ・カクテルバー(愛だろ、愛っ。)をはじめとするおしゃれでクールなCMのイメージが強い役者さんなのに、この作品では緑ジャージで頭にタオルを乗っけた河童おじさん。
小説で私が絶賛していたなべちゃんはといえば、映画の中でもいい奴で、ちひろの特別な眼鏡を「変なの!」と言い、金星のめぐみを飲んで「まずい」と言っていた。
いいぞ、なべちゃん!
原作と映画とどっちがいい論争(たいがい「映画を観たらがっかりした」説が優勢)は置いておいて、最も映画ならではのメリットだと思ったのは、宗教の人たちの目つきや語り口が視覚的に入ってくるところ。
文章でもじゅうぶん違和感のある彼らの様子を見事に再現、いや再現以上に薄ら寒さを伝えてくる演技が本当に巧くて、目と耳が釘付けになった。
小説には小説の、映画には映画の良さがある、ありきたりだけどそうとしか言えない。