乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#140 破局  遠野遥著

 

 

 主人公・陽介は一見どこにでもいそうな(どちらかといえば恵まれている方の)大学生。

 スポーツに勤しみ、ガールフレンドも男友達もいる。際立って妙なところはないのだけれど、何かがおかしい。

 

 

 おそらく、彼の感情の薄さと、それゆえに他人の感情にも寄りそうことのできない、およそ人間らしくないところが原因だと思う。

 

 感情がないというのではない。あるにはあるが、常に俯瞰で分析するから、もはや感情ではなくなっている。

 誰しも自分自身を客観的に見ることはあるにしても、陽介のそれは病的といっていいくらいで、こんなふうに生きている人なんているのだろうか、そんなふうに生きるのはとても疲れるだろうに、ではなぜこの人はそうせずにはいられないのか、と様々な疑問が湧いてくる。

 

「冷酷」というのとも少し違う気がする。

 一人称で語られているのに、常に視点が乖離していて、状況も己の心情も何もかもが他人事のようにしか捉えられていない。

 

 

なにやら悲しくて仕方がなかった。しかし、彼女に飲み物を買ってやれなかったくらいで、成人した男が泣き出すのはおかしい。私は自動販売機の前でわけもわからず涙を流し続け、やがてひとつの仮説に辿りついた。それはもしかしたら私が、いつからなのかは見当もつかないけれど、ずっと前から悲しかったのではないかという仮説だ。だが、これも正しくないように思えた。私には灯がいた。灯がまだいなかったときには麻衣子がいたし、その前だって、アオイだとかミサキだとかユミコだとか、とにかく別の女がいて、みんな私によくしてくれた。その上、私は自分が稼いだわけではない金で私立のいい大学に通い、筋肉の鎧に覆われた健康な肉体を持っていた。悲しむ理由がなかった。悲しむ理由がないということはつまり、悲しくなどないということだ。

 

 

 悲しいという自然現象をこんなふうに自覚し、悲しくないのだという結論に達し、晴れやかになるこの人物を、どう捉えればいいのか私にはわからない。

 

 

 一方、世の中には感情に呑み込まれる人々もいる。

 

 先日、なかなか来ないバスを待っている時、同じバス停のベンチに座って電話をしている外国人女性がいた。

 

 その女の人は叫びに近い声で電話の向こうにいる誰かに何かを話している。

 少し距離を開けて座っている私の存在など一切気にしていない。

 この国の言葉でもなく、英語でも、勿論日本語でもない、聞いたことのない言語の響きだったので内容は全くわからないけれど、とにかく辛いのだということはわかった。

 

 それで、余程のことがあったのだろうとふと彼女の顔を見たら、声は明らかに泣き声なのに、なんと涙は一粒も出ていなくて、目は潤んでさえもいなかったから驚いた。

 にもかかわらず、ずっと目の下をこすって涙を拭うような仕草をその人は繰り返している。拭われるべき液体はこれっぽっちも出てきていないのに。

 

 しばらく呆気にとられた後、泣いている演技なのか? と疑いを持ち始めるが、電話の相手に見えないジェスチャーは必要ないはず。じゃあこのエア涙拭きは何なのか、わからなすぎてちょっと怖くなった。

 

 辛いのは嘘ではないだろうけど、どこかで「泣き叫んでいる私」に酔って、本当はそこまででもないのに涙が出ている錯覚を起こしているのかも、そう勝手に想像し、「大丈夫、あなた今そんなに大変じゃないから」と声をかけたくなった。

 

 その心の声は私の優しさではなくて、嘘泣きだと見抜いていますよ、という竹一(『人間失格』)の「ワザ、ワザ」と同種の意地悪さを含んでいることをここに正直に書いておく。

 

 やがて私の乗るバスが来たので、彼女がどうやって電話を切ったのかは見ていない。

 

 いずれにしても彼女のような人にとっては、その感情が何でどこから湧いてきてなぜそんなふうになるのかなんてことはどうでもいいというか、そんなこと考えたこともなく、ただ“あるもの”なのだろう。

 

 自分の感情との付き合い方って、本当に人それぞれだ。

 

 

 話を陽介に戻すと、彼の特徴として、感情に関しては徹底して人間味がないのに反して欲望はえげつないという点がある。

 

 とくに肉(を食べること)への執着が強くて、そこに嫌悪感を覚えるのは私がベジタリアンだからなのか、非ベジタリアンでも同じように感じるだろうか。

 

 

「今年はどんな新入生が入ってくるか楽しみですね」

 グラスを持ち、佐々木の妻にビールを注いでもらいながら私は言った。こうして肉や酒を振る舞ってもらっている以上、こちらから何か話題を提供するのがマナーであるはずだった。

 

私は肉を食べ、もやしも口に入れた。それから米も食った。肉だけ食っていられたら幸せだが、肉だけで腹を満たすのはマナーに反する気がした。

 

私はそれを見て白けた気分になり、しばらく肉を食うことに集中した。肉は旨く、やはり佐々木には感謝するべきだろう。

 

そして、部活の話なら学校でもできるのだから、佐々木の家に行くのはつまり、肉を食うためだ、ということを発見した。

 

「~べき」であるマナーをことさら気にしつつ、肉を食べることに異様に悦びを感じている。

 佐々木という高校時代の部活の顧問のことを心から慕っているわけでもないのに肉のために頻繁に家に行く。

 

 全てにおいて「なんとなく」「わけもなく」行うことをしない陽介が、肉を食いたい欲はただ純粋な欲としてあるのが不自然にも見える。というのは、彼なら、人体を健康に保つためには動物性の肉が必要であるからこの頻度でこのくらいの量を摂取すべき、などと説明がつきそうなところにそれがない。

 

 食欲という根源的な欲求を理屈抜きで満たすことで、こじれた精神とのバランスが保てているのだろうか。

 

 

 物語は、一気にまくしたてるような展開で終結するが、最後の最後まで陽介が感情に支配されることはなかった。

 

 空を見て、恐らく美しさに感動してはいるけれどやはり体温は感じられない。

「嬉しかった」という描写もあるけれど、それも「嬉しかったのだと理解した」という書かれ方で、直接的な嬉しみは伝わらない。

 

 

 昨今ではアンガーマネジメントのようなものが流行るくらい、自分で自分の心をコントロールすることが推奨されているが、陽介を見ていたら、あのバス停の女性くらいなりふり構わず感情に溺れながら生きる方が生き物としてまっとうなのかもしれないと、そんなふうに思った。