第一部は『乳と卵』(同著者)のあの二〇〇八年の夏の3日間を掘り下げた物語。
第二部はその8年後の二〇一六年夏~二〇一九年夏のことが書かれている。
性のことが軸となって、家族、恋、仕事、女同士の人間関係などがぎゅっと濃く詰まっていて、つまり人生のほとんどのことがこの本には書いてある。
かといって、いわゆる“バイブル”にはならない。
主人公(夏目夏子)はお手本のような生活をしていないし、周りにいる女性たちもそれぞれが危うく、そこから何かを学ばせるようには仕向けられていない。
だからこそ、自力で考える。考えてしまう。
故にどこに焦点をあてて感想を書けばいいのか全くわからない。
とりあえずすごく気になったところを物語の流れを無視して抜き出してみようと思う。
「夏目さんには、わからないよ」
夏子のバイト仲間だった紺野さんという女性が、夏子に言ったこの台詞。
夫がうつ病になり、娘ともども和歌山にある夫の実家の世話になることになった紺野さん。
折り合いの悪い夫の実家になんて本当は行きたくないし、夫への愛情はとっくに冷めきっている。自分の家族も昔から揉めごとばかりで頼れる関係性ではない。
「離婚して、娘さんとふたりで暮せばいい」
という夏子の提案は、的外れではない。むしろ一般的な見解。しかし紺野さん側からすれば、そんな簡単に言ってくれるな、という理想論でしかなく、行き詰っている人には響くわけがない。
「それは仕事がある人だよ」紺野さんが遮った。「それはちゃんとした仕事のある人の話だよ。キャリアがある人、それなりに保障があるような、ちゃんとしたところで仕事ができる人の話だよ。それか実家が太い人、帰るところがある人だね。わたし、何もないんだよ。なんの資格もなくて、ついさっきバイト辞めてきたばっかりだよ。一時間汗だくんなって働いて千円もらえないバイトね、若い子に仕事覚えてもらいたいからシフト減らしてもらえないかってお願いされたりするバイトね。何もやってこなかった、子持ちの四十路まえのゴミみたいなおばさんに仕事なんかないんだって。子どもは育てられない。ふたりでは、生きていけない」
あなたには、わからないよ。
私もそういう思いを抱くことがままある。
例えば、色々なところから仕事のオファーがあって忙しく活躍しているような著名人がお悩み相談なんかに乗っている時。
さも相談者と同じ立場にいるかのように「わかるわ~」と大きく共感を示し、「何とかなるから!」と前向きな着地点で締めくくる。
でも本当は同じ立場なんかじゃないし、上から下に(一時的に)降りてきている人の物言いだし、見ず知らずの人を具体的に助けることはない。
その手の話を耳にすると、自分のことではないのに、ふざけんなと憤りを覚える。
親に対しても思うことがある。
「日本に帰って来れば?」
というのは遠くにいる娘をに対する親心からなのは重々承知。
でも、今私が帰国したとしたらどうなのかという現実は、わかっているようでいてわかっていない。
四十路どころか五十路まえのキャリアのないおばさんが、円高・物価高の日本で何を生業としてどうやって暮らしていくんですか? と、つい牙を剥きたくなる。
夏子と紺野さんは話題を変え、どういでもいいようなことで笑ったりして、じゃあねと別れる。
おそらく紺野さんは離婚することなく和歌山へ行き、夏子が彼女に会うことはもうないだろうし、一生紺野さんを「わかる」ことはない。
ただ、紺野さんが身の上話をしたのは会話の流れからであって相談しようとしていたわけではなく、そもそも別に夏子にわかって欲しかったのではない。
「相談」の場合は理解されたい気持ちはもちろんあるにせよ、聞いてもらえるだけで楽になる効果は絶対的にあるので、極端に言ってしまえばわかってくれるかどうかなんて関係ないのかもしれない。
いずれにしても「あなたには、わからないよ」というのは真実でも言葉にしてはいけない。
いけないというか、真実だからこそ言わない方がいいケースってあるんだよなというのは私が最近になってようやく学んだこと。
けれど私はこの紺野さんの率直さに好意も持っている。
他のバイト仲間の女子会に静かに参加しながら「あの子ら、救いがたいあほだよ」とバッサリ斬り、死にかけの夫に自分の腎臓をひとつあげるか問題には「あげない。夫にやるくらいなら、そのへんに捨てるよ」と言い放つ嘘のなさは、薄っぺらい助言をするような人より全然信用できる。
嘘をつけない尖りは生きていく術でもあり弊害でもある。
きっと田舎でもその尖りで自らも傷を負うに違いない紺野さん、がんばれ。
もう一人、夏子の前に善百合子という女が現れる。
この人がまた相当な曲者で、最も私の心を掻き乱した人でもある。
少女時代に性的虐待を受け、生涯癒えない傷を負ったと言ってもいいくらい不幸代表みたいな過去を抱えながら、実際不幸そうに生きている。
が。私はこの人の矛盾がどうしても気になるし、気に入らない。
第一に、善百合子が逢沢さんという男性と恋人関係にあるという点。
熱く燃え上がるような恋ではないのかもしれない、恋愛感情というよりは相互扶助に近い関係かもしれない、けれどそれだけなら単なる同じ会で活動する理解者という関係でいいはず。
どんな形であれ、恋人同士の関係を築き維持するには結構なエネルギーが要る。
まぎれもなく生(せい)のエネルギーを注ぐことができるくせに、生をとことん否定する矛盾にこの人は気付いているのだろうか。
「でも、わたしはべつに自分がとりわけ不幸だなんて思っていないし、可哀想だとも思っていないよ。わたしの身に起こったことなんて、生まれてきたことにくらべたら、本当になんでもないことだから」
生まれてきたことが不幸なのではなくて、不幸な目に遭い、自分でも不幸だと思っている、だから生まれてきたことさえも不幸だと感じる、というメカニズムならわかるけど、起こったことはなんでもないことであって、そもそも生まれてきたことを悪の根源のように呪うのは何か違う。
百歩譲って、そうすることで彼女が折り合いをつけているならそれはそれで自由だけれど、生む選択をするすべての人に矛先を向けるのはお門違いも甚だしい。
ねえ、子どもを生む人はさ、みんなほんとに自分のことしか考えないの。生まれてくる子どものことを考えないの。子どものことを考えて、子どもを生んだ親なんて、この世界にはひとりもいないんだよ。ねえ、すごいことだと思わない? それで、たいていの親は、自分の子どもにだけは苦しい思いをさせないように、どんな不幸からも逃れられるように願うわけでしょう。でも、自分の子どもがぜったいに苦しまずにすむ唯一の方法っていうのは、その子を存在させないことなんじゃないの。生まれないでいさせてあげることだったんじゃないの
禅問答のようなことを言い、そう言われてしまったらそうなのかもと納得しそうになる。危ない危ない。
新興宗教の教祖になれるのは、きっとこういう人だろう。
私とて、「人生って素晴らしい!」と手放しで思えるオプティミストではないし、どうしても子どもを生みたいと思ったことはないし、生んでくれなんて頼んでないと思ったことだってある。
でも、やっぱりこの人には警戒心しか持てない。
彼女の不幸は、性的虐待以上に、不幸に浸る快楽の蜜をしがんで生きているところ、そしてそれを自覚できていないところだ。
こうして二人の女性を並べてみただけでも溢れんばかりの感情が湧いてくるが、それはごく一部でしかない。
一作の中に何箇所もえぐるような描写が出てきて、川上未映子の圧倒的な凄みと末恐ろしさをまた見せつけられた。