乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#113 三島由紀夫レター教室  三島由紀夫著

 

 

 ママ子という未亡人を中心にした5人の手紙のやり取りだけなのに、なんだかドラマを見ているようで、読んでいる間ずっと登場人物たちが鮮やかに脳内で動き回っていた。

 

 恋の駆け引きも、金の無心をする者のしたたかさも、男の下心も、女の狡さも、それぞれの可愛げも、憎らしさも、全部「手紙」の中に詰まっていて、物語がひろがっていく。

 

 AとBの間だけの往復書簡、つまりA⇔Bの構図ならここまでの展開は生まれない。

 5人の年齢も職業もまちまちな男女が誰かを介在して繋がり、A→B、B→C、C→A……と、多方向に矢印が飛び交うから、多面的に彼らの人となりが見えてくる。

 

 

 とくに交差の中心にいるママ子の存在が、この小説の不可欠要素になっている。

 英語教室の先生という堅気な肩書ながら、その名に負けることなくスナックのママさながらの酸いも甘いも噛分けた筆致で、時に相手のナンセンスをたしなめ、時に優しく慰める。

 

 いつもいつもお若く、いつもいつもお美しく、いつもいつも慈悲ぶかい氷ママ子さまへ。

 

 ボーイフレンドからこのように締めくくられる手紙がくるものだから、冒頭の人物紹介に「かなり肥った」とあるのを完全に忘れてしまう。

 手紙の中のママ子はどこまでも美しく、そしてちょっぴり意地悪な小悪魔マダムなのだ。

 

 

 そのママ子の筆運びこそが、三島由紀夫が手本として見せたかった品の良い文と大人の身のこなしなのではと思っていると、途中から、急に子供っぽい嫉妬心剥き出しの行為に出て驚かせる。

 

 完璧な大人の女性ではなく実に人間臭い。

 男も女も引き寄せられ、また翻弄されるのは、そういうところなのかもしれない。

 

 

 そこで友だちとしてのあなたにお願いがありますの。ミツ子について、何かわるい噂をこしらえたうえで、あなたが茨城へ行ってくださって。タケルの両親の耳にその噂を吹きこみ、全力をつくしてタケルの結婚を妨害してくれるように、両親にたのみこんでいただきたいの。

 

 こんな上品な文章で、若いカップル(どっちも自分と懇意な)を妬んで妨害しようとするママ子。

 それにしても、スパイを使って嘘を吹きこむという古典的かつすぐバレる手段なのが可笑しい。

 

 

 私はとにかく、体と心にまとわりつくクモの糸みたいなものを、何とか振り払いたいのです。私の恋が成就しないまでも、私の恋の対象が、私と同じくらい、何かをはっきり失ってほしいのです。

 そして私と同じくらい、二度と人のまごころを信じない人間になってほしいのです。そうすれば、あの子の魅力は確実に薄れると思います。

 

 

 怖!
 ちょっと、ホラーだよ、これ。

 どうした、ママ子。

 タケルという青年に恋したとはいえ、この執念は恐ろしい。 
 「何かをはっきり失ってほしい」という恨みの深さが窺える言葉をさらっと書いているところがとくに恐い。

 それくらい恋は人を狂わせるというのか……

 

 

 この本は「教室」と謳ってはいるけれど、「書き方」を説くためのものでは全然なくて、手紙という特殊な世界の中でおかしなキャラクターを使って楽しむ三島由紀夫の遊戯ではないかと、私にはそう見えた。

 ご本人はそんなつもりはないのかもしれないけれど、だとしたら余計に、テレビと食べ物にしか興味のない青年とかダンディを気取ったスケベオヤジを真面目な顔して操る三島由紀夫を思い浮かべて愉快になる。

 更には、太宰ならどんなふうに書くかな、なんて下世話なことまで考えてしまう。

 

 

 そして、ふと耳に入る誰かと誰かの会話にも、それはそれで面白み――文字にはない、声の強、トーン、スピード、口癖などからの――があるけれど、文章というのもまた饒舌に人を表すのだと改めて思う。

 

 今やメールすら仕事以外ではなかなか使うことはなくなり、SNSの短いテキストが主流になって、私自身、手紙をきちんと手書きするなんてことはほとんどなくなった。

 

 せいぜい誕生日とかクリスマスの贈り物に添えるカードくらいで、近況を綴ったり悩みごとを打ち明けたりするなんて、もう長い間していない。

 

 昔は「文通」という交流の仕方があって、私も遠くに住む女の子と文通をしていたことがある。

 切手を貼って、ポストに入れて、それから返事を待つ、ああいう今となっては無駄のように扱われる時間が、なんだかとても貴重なものだったように、ノスタルジックに思える。

 

 

 

#112 行雲流水  坂口安吾著

 

 

 私の住んでいるところはコンビニと同じくらい、もしかしたらそれ以上の数のお寺がある。

 外を歩けばオレンジ色の袈裟の人に出くわさないことはないし、バスに乗ればシルバーシートはなくても僧侶優先席がある。

 

 托鉢をす るお坊さんの姿も、朝の日常としてよく目にする。

 人びとは袋に入った品を寄進して頭を垂れ、お坊さんは何やらありがたそうな言葉を唱えている。

 

 まだそんな光景が新鮮だった頃、一体どんな物をあげているのだろうかと思って通りすがりにそっと供物に目をやると、どぎついピンクや緑の飲料や袋入りのパンだったりして驚いた。あと、なぜかヤクルト率が高い。

 

 こっちの勝手なイメージとしては、お米とかバナナとか、自然の素朴なものだと思い込んでいたのだけど、見るからに体に悪そうな添加物満載の品々を捧げる方も捧げられる方も気にしている様子はない。

 

 そのギャップを、見るたび面白いなあと眺めている。

 

 真面目そうなお坊さんがプラスティックの袋をばりばり開けてかぶりつき、パックにストロー挿してぷは~っとやっているところを想像して、おかしみを感じてしまう。

 

  私にはどうも、僧侶に限らずいい歳した男の人(つまりおじさん)のとる意外な所作でスイッチが入るツボがあるようだ。

 異様にはしゃいだり、しょうもない嘘をついたり、恥ずかしげもなくカッコつけたりしているおじさんを見ると、「大人なのに!」と笑ってしまう。

 

 漫画なら『お父さんは心配性』(岡田あーみん著)のお父さん、コントだと東京03の角田さんが演じる役なんかがそれにあたる。

 今年のキングオブコントでいえば、うるとらブギーズの、息子が迷子になって取り乱している父親がおかしくて、涙が出るくらい笑った。

(なのに、優勝どころか全く話題になっていないのが腑に落ちない。)

 

 これが、同じ大人でもおばさんでは面白くもなんともないから不思議だ。

 おばさんがぎゃーぎゃーやってもただ五月蠅いだけか、下手したら気を引きたいだけのブリッ子に見えてどっちにしても不快でしかない。

 

 

 さてこの短編にも、お坊さんらしからぬ変な人が出てくる。

 

 ノンキな和尚であった。彼はドブロクづくりと将棋に熱中して、お経を四分半ぐらいに縮めてしまうので名が通っていたが、町内の世話係りで、親切だから、ウケがよかった。

 

「ドブロクづくりに熱中」「お経を縮めてしまう」がまさに和尚なのに! の私のツボにハマる。

 

 この愉快な和尚さんは、ソノ子というパンスケ(と近所で呼ばれている)に対しても穿った眼で見ることなく、人間対人間で接しているところが好感が持てる。

 

「これよ。お前のお尻は可愛いお尻だよ。オヤジの寿命を養い、薬代を稼いだ立派なお尻だよ。なにも恥じることはないさ」

 

 というか、カワイ子ちゃんとエロオヤジ。人間、そんなもんよ、といった態だ。

 

 しかしその和尚に、ソノ子は「男はみんなウスバカだ」と言い放つ。和尚も男なのにね。

 

 

 和尚はシミジミ骨壺を見つめた。男はみんなウスバカに見えるという言葉が、身にこたえたのである。

 

 

 (。•́ - •̀。)シュン

 

 

――と、これだけなら面白話でチャンチャン、なのだけど、後半でソノ子がとんでもないことをしでかす。

 

 

「このアマめ。キサマ、死ぬと見せて、男だけ殺したな。はじめから、死ぬる気持がなかったのだな、悪党めが!」

 

 

 ウスバカどもへの復讐を果たしたソノ子に対して激昂する和尚の態度が、あまりに突然で私は何が起こったかわからなかった。

 

 

 和尚は気違いのようだった。お尻をきりもなくヒッパタいているのである。

 

  

 この豹変っぷりは……何だ?!

 

 結局和尚もone of ウスバカで、近所のおばちゃんが「あのパンスケ」と言っているのをまあええじゃないかと宥めながらも実は誰よりも見下していて、そのパンスケが逞しく男達を不幸にしていくのが我慢ならなかったのだろうか。

 

 

 この結末からまた最初に戻って読み直すと、和尚なのに! では笑えない。

 

 

 女を嫌悪するミソジニーの男版(男性嫌悪)ってあるのかな。

 と、調べてみたらミサンドリーというらしい。

 

 坂口安吾の書く男性には、ミサンドリーがいつも含まれているような気がする。

 そこまでいかなくても、男が男を都合よく書かない。変なヒロイズムを入れ込まない。だから好き。

 

 

 

【向田邦子ドラマ】隣りの女  

 

 

 ドラマには、夢があっていいなあ。夢があるドラマって、いいなあ。

 

 

 エッセイ『夜中の薔薇』を読んだ流れで、アナザーストーリーズという番組、からのこのドラマを観て、改めてそう思った。

 

 アナザーストーリーズでは、“平凡な主婦が隣りの女の情事に刺激され、奔放な性に目覚めていく物語”と紹介されている。

 

 

 時は昭和50年代半ば。高度経済成長を遂げ、女性もばりばり社会進出をしてはいるものの、一方で「女は家で亭主の帰りを待つ」ことがまだまだ期待されていた時代。

 

 私にとっては小学校に上がったばかりの頃だけど、それでも黒電話に掛けられた白いカバーとか、銀色のゴツゴツしたラジカセから流れるトシちゃんの『恋はDO!』とか、懐かしさを感じるくらいの記憶はある。

 

 

 このドラマの「夢」は、主婦が色っぽい男に抱かれることそのものでもあるし、でもそれよりも、男に会いたいという一心でニューヨークまで行ってしまった、その衝動、その昂ぶり、その解放感に凝縮されていると私には映った。

 

 主役である主婦を演じた桃井かおりはこう語っていた。

 

「行けるかなあ、ニューヨークにってことですよ。主婦が、ニューヨークに行けるかな。名古屋だって行くかな、と私は思ってたんですよ。そしたらね、向田さんが、行くんじゃない? ってなんか自信があるような、ちょっと目が動きながらの、あるんじゃない? っていう感じだったんですよ。」

 

 

 確かに、日々内職に励み、卵がいくらだトイレットペーパーがいくらだという現実を生きている主婦が、ただ男に会うためだけに海外へ行くなんて、なかなかできることではない。

 けれど、できないわけじゃない。

 一般市民だってパスポートを持って、円をドルに替えることは実現不可能ではない。

 

 この、「できなさそうだけど、やろうと思えばできる」ギリギリのところが絶妙で、観ている方は、「そうだ、できるんだ!」と勇気が湧く。

 

 

 それは映像からも伝わってくる。

 

 大泉で慎ましく暮らしていた主婦が、ところ変わってニューヨークでは肩にジャケットを引っ掛けて堂々と歩いている。SATCか! というくらい、堂々と、颯爽と、歩く。

 

 このドラマを同じ年代の主婦として観たら、そりゃあもう「私だって!」と思ったに違いない。

 

 やっぱり、名古屋とか福岡とかじゃ、ロマンがない。

 ニューヨークだからいいのだ。

 

 

 

 残念ながらお相手の根津甚八さんは私の好みのタイプではないけれど、あの、ただ上野から谷川岳までの駅名を呟く声はエロティックに耳に残る。

 

 

 上野。尾久。赤羽。浦和。大宮。……

 

 

 薄い壁を通して聴こえるこの声は、どんな愛の言葉よりも、どんな卑猥な囁きよりも、一億総中流家庭の主婦の中に眠る女の性を呼び覚ましただろう。

 

 

 にしても、駅名を並べるだけの台詞をこういうふうに使うというのが向田邦子の突出したuniquenessで、その発想はどこからきたのかと聞いてみたくなる。

 

 

 結婚もせず、ニューヨークだってどこだってその気になれば行けるし誰にも文句は言われない私だけれど、明日のためにラップをした皿を冷蔵庫に入れながら、「やろうと思えばできるんだ」と、心強いお守りを手に入れたような気持ちになった。

 

追記:歩きながら甘栗を食べるシーンも、なぜそんな食べにくい物を?! と思いつつ、器用に皮を剝いては女の口にぽいぽい入れる手先を見ていたら、ああ、だから甘栗かと納得。ポップコーンじゃ絶対この色香は出ない。

 

 

 

#111 夜中の薔薇  向田邦子著

 

 

 この本もまた、日本にいる友人が送ってくれたもの。

 ロックダウンでついに古本屋も一時休業してしまった(今は再開)ので、ありがたみが余計に身に沁みる。

 

 

 向田邦子さんといえば、“寺内貫太郎一家の脚本を書いた人”であることはそのドラマを観ていなくてもタイトルとセットで知っている。

 

 この本の前半は日記のようなエッセイで、向田さんの身の回りで起こる日々の小さな出来事が綴られている。

 

 よく登場するのは、古き良き、私が知っているよりももっと前の昭和の食卓。

 丁寧に炊いたお米、鰹や昆布でとった出汁、海苔、卵、これぞニッポンの正しい食事! という品々がさらりと出てきて、それほど日本食に飢えていない私でも食欲をそそられる。

 

 

 それで思い出すのは、食いしん坊で料理上手だった祖母のこと。

 粗くマッシュしたじゃがいものコロッケとか、スコッチエッグとか、きちんと濾した生地で焼いてくれたクレープとか、老人にしてはカロリーの高い、しかしどれも超絶美味なおばあちゃんの味。

 

 そういえばまだ元気に一人暮らしをしていた祖母の家に最後に行った時も、料理をしていた。

 玄関に上るなり「今ちょうど茹で卵するところだったんだけど、あんた、ちょっとやってちょうだい」といきなり任命されて、茹で卵くらいならと小鍋に張った水に卵を入れようとしたら「おたま使いなさいよ、おたま。割れるから。」と後ろから口を挟んでくる。

 

 うるさいなあと文句を言いながらも、一応素直に従って、普段は使わないおたまでそっと卵を水に落とした。

 

 茹で卵の出来栄えは、おぼえていない。

 

 けれど、今は天国にいるおばあちゃんがいつも台所で何かしら手を動かしていた姿は鮮明なまま生きている。

 

 

 それはさておき。

 食事の話以外に印象的だったのは旅先での日記。

 

 私は日頃、旅行記と称される本はほとんど読まない。

 いや、能動的に読んだこともあるけれど、旅好きのくせに赤の他人が外国でどうしたこうしたという話にはあまり興味がないことに気付いたのと、多くが武勇伝の匂いか逆にきれいなところだけをピックアップしている感じがして白けるのとで、読まなくなったのだ。

 

 なのに、この本で遠い国の描写に惹かれたのは、2年近く国境はおろか県境すら越えずに閉じ込められたような気分の今だからなのだろうか。

 

 日本ではない国に住んでいるなら旅行しているみたいなものだと思われるかもしれないけど、住んでいればそこは日常になり、新鮮さも驚きもどんどん薄れ、「普通」になっていくものだ。

 

 

 ベルギーは複雑な国である。

 フランスみたいに、粋です、洗練されてますとひと口では言えないところがある。

 正直いって、私にはまとまったものは何も見えなかったが、ただひとつ言えることは、色あいのはっきりした大国を見物するより、判らないなりに生き生きして、とても面白かったということだ。               『ベルギーぼんやり旅行』

 

 ベルギーといえば一時期流行ったベルギーワッフルくらいしか知らない、あの『フランダースの犬』もベルギーだったのだとこの本で知ったくらいだったけど、もうベルギーに行きたくて仕方がなくなってしまった。

 

 ベルギーじゃなくてもいい。

 どこか、今いるところと全く違う景色を見たい。

 違う味付けの食べ物を食べて、違う顔の人たちが行き交うのを眺めて、違う言葉で話しているのを聞きたい。

 

 少し前までは、その気にさえなればすぐにできたことが、できない。

 むくむく湧いた旅欲が、叶わないなら文字からでもといわんばかりに吸い上げていく感覚で読んだ。

 

 ブラジル人は男も女もおしゃれである。絵心があるといおうか、青い空やコーヒー色のアマゾン河を背景に、自分の肌の色を知りつくした上で、大胆な色を組み合わせて身を飾る。ここではおとなしい中間色は似合わない。暑苦しい黒もあまり好きではないらしい。

 揺れるもの、光るものが好き。踊ったとき動いたとき一番美しくみえるのが、この国の人の生き甲斐のようだ。色にむせながら街を歩いた。

 アマゾン河は静かに流れている。               『アマゾン』

 

 

 無論、文字を追うだけで完全に満たされることはないが、この本が、私の代わりに海を渡ってほんの少し日常ではないエッセンスを運んできてくれたのだ、そう思ってしばし異国の色とりどりを感じていた。

 

 

 最後に、取材旅行中の台湾で遠東航空機墜落事故でお亡くなりになった著者の人となりが色濃く表れている箇所で締めくくる。

 

 

「あたしはトシだから」「めんどくさいことはカンベンしてよ」と人生に対して白旗を上げてしまったが最後、残りの人生は捕虜と同じである。

(中略)

 年をとったからといって、どうして、人生を「おりる」必要があるだろう。寺内きんさんではないが、最後まで人生の捕虜にならず、戦い抜くことのほうが素敵なのではないだろうか。

 

 先輩!

 

 才能と人柄を惜しむ「生きていれば……(きっと素晴らしい作品が)」という声を無視して不謹慎を承知でいえば、文字通り飛び回る空で死ねたら本望だったのでは。

 私なら、きっとそうだ。

 いつか、どこかの空で、パッと散る、そんな死に方をしたい。

 

 

 

 

#110 1ミリの後悔もないはずがない  一木けい著

 

 なんと嘘のない、信用のできるタイトルだろう。

 これだけで、内容はともかく良書だと太鼓判を押したくなるくらいだけど、内容もちゃんと良いのだからすごい。

 

 

 最初の章『西国疾走少女』で、由井の中学時代の回想がはじまると、たちまち私の頭も十代に戻っていた。

 

 脳内に広がるのは、昭和の名作『ホットロード』とか『瞬きもせず』の世界。
 キュン♡

 

 

 映画『万引き家族』を思い出させる(あんなに人数は多くないが)ぼろくて狭い家に住む由井と、雑誌に出てきそうな生活感のない家に住む桐原。
 格差とか、そんなものは中学生の彼らには関係ないはずなのに、あまりの家庭環境の違いが危うい結末を予感させてハラハラしながら読んだ。

 若い、というより幼いといってもいいくらいの恋の真っ直ぐさが、自分にもそんな日があったとは信じられないくらい、眩しかった。

 

 

 青さと情熱でしかない恋ができるのも、大人の振りかざす綺麗ごとに傷つくのも、その年代だけにしかない天国と地獄。

 

  

 そんなことを思いながら、自ずと「後悔」について考えている。

 

  

 私のいう後悔というのは、判断の誤りを「認める」こと、それから他の選択をしなかったことを「省みる」こと。

 

「もう過ぎたことなのだから後悔してもしゃーない」と一見ポジティブな考え方は、単に誤り(だったかもしれないこと)を認めたくない意地で物事を丸めているだけ。浅はかだし、雑過ぎる。

 なぜ後悔「していないことにする」のかといえば、可哀相な人、残念な人だと思われたくないし自分でもそんなふうに思いたくないから。

 

 けれど、私たちは生きている限り、日々後悔を繰り返している。そして、「なかったこと」にはできない。

 

 小さなことでいえば、朝、曇り空を見てなんとなく怪しさを感じながらも面倒臭くて傘を持たずに家を出て、結局帰りに雨に降られれば、なぜあの時折り畳み傘を鞄に入れなかったのだろうと悔やむ。ちょっとした動作を面倒に思ったこと、リスクよりも鞄の軽さをとったことを。

 

 まあそんなことは多少雨に濡れるとか、コンビニで傘を買う数百円が出ていくとか、その程度のことでリカバーできるからいちいち後悔BOXに入れるほどのことでもない。

 

 では大きいものはといえば、私の場合、恋愛でも数々の後悔をしたことがあるし、あとは学業とか職業の選択に関すること。

 

 

『今までの人生でいちばん後悔していることは何ですか』

 私は、なんて答えるだろう。

 

 

 テレビの街頭インタビューを見ながら、過去に思いを巡らす女性が出てくる。同時に、私自身も同じ問いの答えを探している。

 

 

 真剣に勉強しなかったこと、稼ぐ力をつけなかったこと、あんな浮気野郎と結婚したこと、ダイエットをしなかったこと、いっぱい諦めてきたこと。したことへの後悔。しなかったことへの後悔。

 

 したことへの後悔/しなかったことへの後悔

 はて、私はどっちが多くて、どっちをより深く悔やむだろう。

 

 

 思い返せば、大人から「あんた、いつか後悔するよ」と言われそうなこと、もしくは実際そのように言われたことに関しては、本人的には後悔なんてこれっぽっちもしていないし、逆に「そんなこと?」というようなことをいつまでもくよくよ引きずっていたりする。

 

 

 このように、後悔というと過去に対することと捉えるのが普通だけれど、このごろ、未来に起こり得る後悔についても考えることがある。

 それは、家族と離れて暮らしていることをいつか悔いるのではないかという予感のような恐れ。

 

 日本ではない国に住む選択そのものを悔いたことはない。が、コロナ禍になってから、話は変わってきた。

 たとえば、親がコロナに感染して重症化しても、私はすぐに駆け付けることはできない。

 コロナじゃなくたってもう数字的にはじゅうぶん老人認定される年齢の両親は、いくら今のところ(こっちが驚くほど)健康を保っていたとしても、いつどんな病気になってもおかしくはない。痴呆だって、ちょっとしたことからの大怪我だって、交通事故だって、全然あり得る。

 

 何にせよどんなに急いで帰国したところで、15日も隔離されている間に親が死んだら死に目に会えないどころか葬儀にも出られず、初七日すら私は一人ホテルの中……

 そんなことを想像するだけで、もう既に私は海を越えた地にいることを悔やみ、責めても仕方がないとわかっていながら自分を責めまくってしまうのだ。

 

 とはいえ、である。

 じゃあ、「もしかしたらそうなるかも」に備えて親が元気なうちに実家に戻り、側にいるか。それも考えなくはなかったけれど、それはそれで、老人たちとの生活にうんざりして「なぜ早まってこんな生活を始めてしまったのか」と悔やむ可能性がある。大いに、ある。

 

 つまり、「後悔しないように生きましょう」というのはやっぱり嘘というか理想論で、“いずれにしたって後悔する可能性はじゅうぶんにある“前提で、それを引き受ける覚悟でいろいろと選んでいくしかないのではないか。

 

 

 まだ私は、“もしもの時”を引き受ける覚悟はできていなくて、だから想像してはうろたえている。

 本書でいうところの「失った人への後悔」の未来版「失う(かもしれない)人への後悔」を先回りしてうろたえるなんて馬鹿馬鹿しい、そう一蹴したいところだけど、「いつ、何が起こるかわからない」をまざまざと見せられている今の私は、うろたえながら、結局今日食べたいものを食べ、したいことをして、したくないことはなるべくしない、そんな時間をつなげることしかできない。

 

 

 

 

#109 閉経記  伊藤比呂美著

 

 四十肩、老眼、閉経。

 

 この3つが、目下私の個人的な激熱トピックスである。

 

 肩、というより上腕(右腕のみ)に痛みが現れたのは一年ほど前のこと。

 はじめは原因不明の筋肉痛のようなものだと思って放っておいたが、これがなかなか治らない。それどころか痛みの範囲が広がり、もはや気のせいでは済まないくらいに主張してくる。

 しかし常に痛いというわけでもなくて、ほとんどの時間は忘れている。で、ある角度に入ると「ぁうっ」と変な声が漏れるくらいの激痛が走る。

 一番痛かったのは、高いところに張った洗濯ロープにタオルを掛けようと、軽くジャンプするくらいの勢いで腕を伸ばした時。なんじゃこりゃ、というくらいの疼きだった。

 それがまぎれもなく「老化」が原因の、いわゆる四十肩だと知った時のショックよ。

 

 

 老眼に関しては、今のところ専用の眼鏡を買うには至っていないが、もう時間の問題だという予感はある。

 年の離れていない姉が、一昨年のある日「ついにシニアグラスを買った」とLINEしてきたときから、予感が実感になってきた。

 シニアグラスだなんて、売春をパパ活って言い替えてまろやかにしてるのと同じで”老眼鏡”でしょ! と思いながら、自分ももうすぐそれなしでは生きられなくなるのかと、少し落ち込んだ。

 

 

 閉経は、老眼より少し先にあるものだという認識でいるけれど、個人差があるものだし、早ければ私の年齢でももうあり得ない話ではない。

 

 子供は産まないとはっきりしてからは、私にとって生理というのはただ煩わしいだけの無用の現象なので、早く解放されたいと、その日を心待ちにしている。

 生理前のイライラ、異様な食欲、生理痛などの一般的な生理問題はもとより、布ナプキンの使用が定着してから(何度も挑戦と挫折を繰り返した末)は、それを洗うのが面倒で仕方がない。

 

 生理がないことを、即ち女として終わりだみたいな言い方をする人もいるが、そうは思わない。

 生理があってもなくても、女として枯れている人もいれば、いくつになってもバリバリの満開! という林芙美子の小説に出てくるような女性だっている。

 

 自分がどちらかは置いておいて、とにかく今か今かと待ち構えている私は、この本をよし先人の経験から予習しておこうと、手ぐすねを引くとはこういうことだといわんばかりに張り切って読んだわけだ。

 

 

 本来ならば、最も身近な経験者は母であり、あれこれ教えを乞いたいところなのだけど、我が母ときたら、更年期障害→無自覚 四十肩→無し 閉経→四十過ぎで子宮筋腫の手術をしたから無関係 という、最強のアラフィフだったからお話にならない(いつからか老眼鏡は持ち歩くようになっていたけど、それもかなり遅かったように思う)。

 

 

 そして本書も、結論からいえば、私の期待していたような参考書ではなかった。

 

 

 べつに閉経のことばかり書いていたわけじゃないが、どんなテーマを書いていても、根本には閉経前後の女のからだがあった。老いていく自分と、いろんなものとの関係があった。すべて新鮮でおもしろかった。そしてその中心にあったのが閉経だった。

 

 

 あとがきにはこうあるが、「閉経のことばかり書いていたわけじゃない」どころかほとんどの話が閉経の話ではなく、年齢的にそれを経た人の日常を綴ったエッセイだった。

 

 具体的にいえば、アメリカの家庭と日本にいる父親(途中でお亡くなりになる)の家を往き来するルーティンで起こる両方の家族のことと、ズンバにはまったことがしつこく書かれている。

 

 独り身の私にとっては、三人の娘がどうしたああしたなんて、子供の写真で年賀状を送られてきたような気持にしかならない。

 ひがみとか妬みではない。友人ですらない他人の子供のことって、こういっちゃなんだけど本当にどうでもいい。

 強いていえば、“老いた親とともに老いゆく我が身”という構図は少し先の未来を見るようでもあったけど、それにしてもタイトル詐欺じゃん。と、騙されたような気持の方が大きい。

 

 まあ暇つぶしに読むには面白くないこともない、そんな本だった。

 

 

#108  武道館  朝井リョウ著

 

 

 2016年に一度読んだ時の感想として、「時々テレビで見る朝井さん(の話すこと)はとても好きなのに、作品とはどうも相性が悪いようで、とくにこれは、10代のアイドルグループに属する女の子という自分とは何の接点も興味もない世界の話なので、感情移入がまったくできなかった。」と残していた。

 

 が、最近『桐島、部活やめるってよ』『何者』で立て続けに心をえぐられたこともあり、興味のない世界の話とわかっていながらもう一度読んでみた。

 

 二度目の感想としては、概ね同じというか、やっぱりこの話にのめり込むことはなかった。

 ただただ、アイドルって大変だなあと、ありきたりなことを思いながら、あの、坊主頭の彼女のことを思い出していた。

 

 

「なんか、どっちなんだろうって思うこと、あるじゃん」

 愛子は、自分の言葉が足りていないことを自覚しながら、言う。

「人って、人の幸せな姿を見たいのか、不幸を見たいのか、どっちなんだろうって」

 碧は、頷きもせず、愛子の言葉を聞いている。

 彼氏がいることを写真に撮られ、頭を丸めたアイドル。あの動画の再生回数は、何百万回だっただろうか。握手会襲撃事件。被害者であるアイドルの回復を望むのではなく、包帯姿の自撮り写真を糾弾することに力を注いだ人が、どれほど多くいたことか。

 

 

 私は久しぶりに日本に帰って、でもまだ“旅の途中”の気分は続いていて、神戸から香川へ渡るフェリーを待っていた。

 フェリーに乗るまでまだ時間があったので、待合室の椅子に座ってぼけーっとしていたら、急にテレビの画面に大写しになっている坊主頭の女の子が目に飛び込んできた。

 

 え?! と、一瞬で釘付けになって、固まる。

 不揃いに刈った痛々しい頭で、目に涙を溜めた女の子が、悲痛な表情で何かを謝っている。

 

 私は彼女の顔も名前も知らなくて、その時はじめてあの大所帯グループの一員であることを知ったのだけど、それでも、同行者(旅仲間)の存在を完全に忘れてしばらく動けなくなるくらいの衝撃を受けた。

 

 

 調べてみたら、あれは2013年のことで、スキャンダルが発覚したのが1月、私が香川に行ったのは6月なので、タイムリーな映像ではなかったようだ(なぜ6月にワイドショーでそれが流れたのか不思議で更に調べたら、ちょうど第何回目かの総選挙があった日だったことがわかった)。

 

 

 アイドル→夢を売る商売→恋愛禁止→破ったら謝罪→禊

 

 理屈としてはそういうことなのは、わかる。

 

 一方で、アイドルだって、恋もすれば、あんなこともこんなこともするよ、実際。

 だって、人間だもの。

 

 というのも、みつをじゃなくても知っている。

 

 

 彼女は、誰に言われたでもなく、自らの決意で、あれをしたのだという。

 絶対にしてはいけないことをして、それでもアイドルでい続けるために、反省した姿を撮影し、公開した。

 

 

 

 純粋な苦渋の決断ともとれるし、注目を集めるためのパフォーマンスともとれる。

 人は、見たいように見るし、言いたいことを言う。

 

 

 真意はわからない。

 

 わからないけれど、不幸を見たい人の数が圧倒的に多いのは確かだと思う。

 

 あれから8年経った今、その風潮は加速して、次から次へと不幸のターゲットを見つけては糾弾する世の中になっていることは肌で感じられる。

 

 オリンピックが間近になれば、携わる人の過去をほじくり足を引っ張る。

 それが終わったかと思えば、いき過ぎた発言をした人気者を吊るし上げる。

 さて、次は誰にしようか。

 意地悪く光る眼が、うようようごめく世界。

 

 この時流は、「〇〇させていただく」の乱用と比例していると、はたと気づいた。

 

 

M-1で優勝させていただいて」

 

 え、優勝した、じゃなくて? させていただいた?

 

 いやいやいやいや、優勝したのは、あなた(たち)の作ったネタが面白かったからだし、たゆまぬ練習の成果なんだから。

 

 それだけでなく、運とか応援してくれた人とか、何かを調整してくれた事務所とか、支えてくれた家族とか、何より高得点をつけてくれた審査員とか、諸々のおかげだって気持ちがあるってのは、わかるけども。

 

M-1に出させてもらって」

 

 いや、誰に!

 

 エントリーしたのは、あなた(たち)。

 予選を勝ち抜いたのも、あなた(たち)。

 

「優勝した」「出た」って言ったら、誰かに「自分の力だと思うなよ!」「誰のおかげだと思ってんだよ!」って、攻撃されるの?

 

  

 日本語が破綻するほどへりくだらないと生きていけないのか。

 

 

 アイドルじゃなくたって、あれはだめ、これはだめ、人を傷つけるな、差別をするな、嘘をつくな、ズルをするな、調子に乗るな、自慢するな、禁止禁止禁止禁止の世の中で、一体何をおもしろがっていいのか、見失いそうだ。

 

 

 ずっとずっと気になって、というか気に障っていた言い回しについて好き勝手に書かせてもらって、スッキリさせてもらった。