乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

【読書感想】#204有吉佐和子『華岡青洲の妻』│亡き祖母のことを想う

 

 

 華岡青洲というのは実在した人物で、「世界で初めて全身麻酔を用いた乳がん手術を成功させ医師(私はこの小説を読むまで名前すら知らなかった)だそうだ。

 日本ではなく世界で、しかも江戸時代に、というのがどれほどの偉業であったかを物語っている。

 

 青洲の父もまた医者で、その医家に青洲の妻として嫁いだのが主人公・加恵。

 そもそもそこへ嫁ぐことになったのは姑となる於継が加恵を見込んでのことだった。

 加恵は加恵で地域で評判の「美しく賢い女性」として知られていた於継に憧れていた。

 青洲を見たことすらないのに断らなかったのは他でもない於継からの申し出だったからだ。

 

 が、実際は……

 

 姑と嫁が心を許し合い仲睦まじく暮らせるわけがない。

 

 そのことを私は小学生の頃から知っていた。

 

 私の父が長男ということもあって、父方の祖父母&曾祖父の後妻である曾祖母と、私たち一家(父母姉私)は二世帯住宅に住んでいた。

 玄関も台所も浴室も何もかもが別々なので、同じ敷地にいても基本的には生活をともにしていたわけではない。

 とはいえ、姑(祖母)と嫁(母)の間では数えきれないくらいの諍いがあった。

 

 今思えば、なにしろ愛されジャイアンの嫁なんてまあ扱いにくいだろうし、目の上のたんこぶみたいな存在だっただろうと、祖母に同情する。

 

 しかし、子供だった私にとっては、母の敵である祖母は私の敵である。

 優しい曾祖母にばかり懐いていたのは、物心つく前から本能的に祖母を警戒していた現れだと思う。

 

 母VS祖母の争いでよく憶えているのは、何かの時のために互いの合い鍵を持とうという祖母の提案を受け入れまいとして必死に抵抗していた母の顔。

 父に「絶対に嫌だ」とものすごい勢いで言っていたが、そりゃそうだろと思う。

 祖母はいかにも私たち一家が留守の間に合い鍵を使って忍び込み何かを見つけ出そうと侵入しかねないような嫌らしい人だったから。

 

 それ以外にも日常的に「お義母さんにこんなことを言われた」「こんなことして信じられない」という母の愚痴を浴び続けていたので、ますます私は祖母が嫌いになって、仲良しの同級生にも「うちのおばあちゃんは嫌味ったらしい婆だ」と悪口を言いまくっていた。

 

 高校を卒業するまでその家に私は住んでいたけれど、結局最後まで祖母に対して愛情を感じることなく、心が通う会話もしたことがなまま、彼女は他界した。

 

 

 

私はそういう世の中に二度と女には生れ変りとう思うませんのよし。私の一生では嫁に行かなんだのが何に代え難い仕合せやったのやしてよし。嫁にも姑にもらないですんだのやもの

 

 青洲の二番目の妹・小陸が病死の間際に残したこの言葉のなんと率直なことか。

 小陸と同様、もう姑とどうのこうのなんてことはない人生を歩んでいる私は同じように幸福を感じる。

 

 

 他方で、加恵と於継の敵対関係の根底にあるのが間に青洲を挟んでの「女」同士の闘いであるということには驚いた。

 双方とも、自分の方が青洲に尽くしているのだということを見せつけたい、そのためなら命をも捧げるという姿勢なのだ。

 

 ジャイアンと意地悪婆の間にその要素は一ミリもなかった。

 どちらも父に対して「女」的な独占欲を持つタイプではなかったし、故に父に気に入られたいがための張り合いではなかった。

 となると、なぜそんな水と油みたいな相容れない関係になるのか疑問でもある。

 

 立場的に姑として嫁を支配したい祖母と、敬愛できない女に従うのはごめんだという母。

 

 くらいのもんかなあと、若い頃は思っていた。

 

 けれども、自分の年齢が当時の祖母に近づいてみると、祖母もなかなかの茨の道を歩んできた女性だったのではないかと想像がつく。

 

 祖父はなんと14人兄弟(途中で後妻に代わったので産んだのは2人の女性)の長男だったのだ。

 つまりその嫁となった祖母は結婚したことによりいきなりすごい数の義兄弟とその配偶者に囲まれるような場面を乗り切らなければならなくなったわけだ。

 

 

 私が幼い頃は、毎年元日は何人いるかわからない親戚どもが祖父母の方の家に集い、宴会をする習わしがあった。

 同じような禿頭がずらりと並び、同じようなおばさんパーマをあてた女たちがその間間に座り、好き勝手に飲み食いしていた。

 

 たくさんお年玉もらえて嬉しいなー

 と、次から次へとできあがる料理やビール瓶を宴会の間に運ぶ手伝いをしながら、私は呑気に思っていた。

 

 が、祖母にとっては小姑だらけの大運動会。

 まぢで無理ゲーなんですけど! と逃げ出したいことだって絶対あったはずだ。

 あとで一人で泣いたことだって、何度もあったかもしれない。

 

 大量の揚げ物をひたすら揚げ、大量のおでんを煮込み、大量のおにぎりを握り、下げられた大量の食器を洗う、そんな役目を黙ってこなしていたなんて今の私なら尊敬できる。そして、一度もその祖母に労いの言葉をかけることがなかったのが本当に悔やまれる。

 

 そんな祖母が、唯一下に見ても許される存在である嫁にちくちくと皮肉まじりのことを言うのはある意味仕方がなかったのだろう。

 

 芋づる式に蘇る祖母との思い出は、やっぱり「嫌味な婆」の側面が多いけれど、もう少し彼女の人生のあれやこれやを聞けばよかった。

 

 

 海外にいるのをいいことに法事は欠席、帰国してもろくにお墓参りもしていない体たらくを反省し、次回はちゃんとしよう、なんてしんみり思っている。

 

 

【読書感想】#203太宰治『女類』『男女同権』│男はつらいね

 

 

 

 私は女性でありながらいき過ぎたフェミニズムにはカルト的な怖さを感じるし、男性と女性は体のつくりからして違うので全く同等だとは思わないし、ただそれぞれの長所短所があるだけで競う必要もないと思っている。

 

 それでも、これって私が女だからこんな目に遭ってるんだろう(男ならこんな扱いを受けないだろう)なと思うことは結構ある。

 要するに、ナメられているのだ。

 が、それだって性差別というよりは、動物的本能からこいつ(私=Sサイズの人)には勝てると思われてのことで、女性性に対する蔑視ではなく単に弱そうな者として軽んじられているのだと感じる。

 

 

女の気持が、わからなくなって来るんだ。僕はね、人類。猿類、などという動物学上の区別の仕方は、あれは間違いだと思っている。男類、女類、猿類、とこう来なくちゃいけない。全然、種別がちがうのだ。からだがちがっているのと同様に、その思考の方法も、会話の意味も、匂い、音、風景などに対する反応の仕方も、まるっきり違っているのだ。

 

 

え? わかったかい? 女類と男類が理解し合うという事は、それは、ご無理というものなんだぜ。そんな甘ったれた考えをおっていたんじゃあ、僕はここで予言してもいい。君は、あの女に、裏切られる。必ず、裏切られる。

 

いまに、死ぬのは、お前のほうだろう。女は、へん、何のかのと言ったって、結局は、金さ。

 

――『女類』より

 

 

 そう、そうなのだ。種別がちがうだけなのだ。

 

 しかもいかにも太宰らしいのは、種別が違うとした上で、「女には叶わない」と女の方が強者であるという前提に立っているところ。

 

 

 

世の女性というものは学問のある無しにかかわらず、異様なおそるべき残忍性を蔵しているもののようでございまして、そのくせまた、女子は弱いと言い、之をいたわってもらいたいと言い、そうかと思うと、男は男らしくあって欲しいと言い、男らしさとはいったいどんなものだか、大いに男らしいところを発揮して女に好かれようとすると、これは乱暴でいけないと言われ、そうして深刻な手痛い復讐をされて、もうどうしたらいいのか、(中略)新憲法に依って男女同権がはっきり決定せられましたようで、まことに御同慶のいたり、もうこれからは、女子は弱いなどと言わせません、なにせ同権なのでございますからなあ(以下略)

 

――『男女同権』より

 

 

 一般的にはまず「男尊女卑」がありきで、長い間男性優位の社会が当たり前とされていた。

 しかし女性が下に見られることを許さなくなり、女にも権利をと訴え、いろいろな面で女性も男性と同じ扱いを受けるべきだと認められるようになってきている。

 

 確かに家族の長といえば男親だったし、次に偉いのは母親ではなく男の子供とされ、政界にせよ経済界にせよトップに立つのは男性というのが常であった。

 

 だから「男女同権」と聞けば、女性が頑張って手に入れた地位のように感じるが、それは一面的な見方でしかない。

 

 

『男女同権』で講演をしている老詩人は、幼いころから女性にいじめられ、とにかくつらい思いをしてきたのだと語る。

 実母をはじめ、下女に、学校の先生の奥さんに、勤め先のおかみさんに、それから三度結婚したすべての妻に、いじわるばかりされてきたのだと。

 即ち彼にとって男女同権が認められるというのは下に見ていた女の下克上ではなく、虐げられていた男がやっと女と同等になれるのだという真逆の意味になる。

 

 

 女ばかりが抑圧され続けてきた弱者だなんて思い上がってはいけない。

 

 

 女性だけがこんな目に! と被害者面して大声を張り上げて男性を糾弾することが長い目で見て女性にとっての幸福につながるようには、私にはどうしても思えない。



余談:折しもFIFAワールドカップ2026が行われていて、残念ながら日本はブラジルに敗れてしまったけど、SAMURAI BLUEを応援しながらやはり男には男の、男だからこその、激しく美しい闘いがあるのだと強く思った。

それは、女はサッカーなんてするな、ということでは全くない。

ただ、ピッチで闘う獣たちの姿として、雄であることとそうでないことの間には圧倒的かつ絶対的に差があるのだ。
それにしても、私がワールドカップを観るのは2010年以来、というかこんなに真剣に観るのは初めてかもしれないというくらい熱狂してしまった。

とにかくすごかった! ありがとう森保ジャパン!! 彩艶最高!!!

 

 

 

【読書感想】#202岸田秀『続ものぐさ精神分析』│なぜ私は太宰治に惹かれるのか

2026年5月25日 岸田秀先生が逝去されたとの知らせを母より受け取った。

生前のご厚情に心より感謝申し上げます。

先生との出会いは間違いなく私の人生及び人生観に大きな影響を与えてくれました。

どうぞ安らかな旅立ちでありますように。合掌

 

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《歴史と文化》《性と性差別》《人間について》《感情について》《作家について》の5つにカテゴライズされ、各章で更に多様なテーマで語られている。

 取り上げたいものが幾つもあったが、《作家について》の中の「太宰治論序説」に絞って感想を書こうと思う。

 

 

 太宰治ほど心酔と嫌悪、賛美と軽蔑、敬慕と憎悪の両極端に評価がわかれる作家はいない。心酔者は手放しの心酔ぶりである。彼らの書いたものを読むと、まさに魅入られているという感じは免れがたく、一種の信仰告白に似ている。(中略)他方、太宰を嫌う者は吐気に似た嫌悪感をもち、その作品は読むに耐えず、無理にがまんして読みおえると、そのいやらしさにやり切れない思いがいつまでも尾を引いて落ち着かないと言う。

 

 

 これはまさに私が持つ村上春樹像と全く同じだ。

 確かに太宰治も極端に賛否のわかれる人物だと言える。つい最近も、Spotifyで発信活動をしている友人が(メインのエピソードではないが)「私、太宰治が大嫌いなんだけど」と本当に忌々しげに言っていて、ああそうか、そういう人もいるのか、そう太宰贔屓の私は思ったばかりである。

 

 けれども、ハルキスト/アンチハルキとはまた違ったわかれ方でもある気がする。

 

 

 太宰治に対して、多くの人びとが無関心でいることができず、尊敬か嫌悪の両極端のいずれかの感情をもちつづけるということは、彼が人びとのやりたいけれどもやれない、またはやらない何かを実行した、または作品のなかに表現したからであろう。そして、その何かは、人びとにとってきわめて重大な、根本的な、クリティカルなことにかかわっているのであろう。それは、単にある思想に賛成とか反対とか、あることがおもしろいとかおもしろくないとかの問題ではなく、人間の生き方そのものにかかわっているであろう。そして、その何かをおのれの自我体制にとって肯定的ととらえたもの、その何かが自我体制の支えとなるものは太宰に対して尊敬などの肯定的感情を、その何かをおのれの自我体制にとって否定的ととらえた者、その何かに自我体制の安定を脅かされる者は嫌悪などの否定的感情をもちつづけるのであろう。

 

 太宰治の場合は本人及び作中の人物の生き方そのものが評される。

 一方、村上春樹は本人の生い立ちとか生き様というのはほとんど関わっていないところで絶賛されあるいは酷評されている。

 

 私がハルキストではない理由は一旦おいておくとして、ではなぜ太宰贔屓なのかということを考えてみた。

 

 

太宰治は甘えの態度を強くもちつづけた人である。要するに甘ったれなのである。

 

 

 ここ。

 

 岸田先生は、甘えの傾向の強い青年たちは太宰を自分が実現できない理想を死を賭して実践した殉教者と見る、しかし甘えることに未練を残しながら甘えを断念している者にとっては甘えを正当化してぬけぬけとしている太宰は鼻もちならないのだ、とざっくり言えばそう結論づけている。

 

 それに異論はない。1ミリもないのだが、生意気に言わせていただけば、岸田先生は太宰と同性であるが故に異性の視点が抜けている。

 

「甘ったれ」というのはとくに男性にとっては悪口になり得るのだろうけど、私を含む一定数の女にとってそこが魅力というか魔力というか、惹きつけられる要因になってしまう。

 

 私にとって太宰治は「私がやりたくてもやれないことをやった人」ではなく、「どうしようもなく甘ったれだけど赦してしまう人」なのだ。

 

 なぜか。

 

 まず太宰が醜男だったら成立していなかっただろう。

 しかし見てくれが良ければ誰でも赦してしまうわけではないのは言わずもがな。

 そこにはやはり太宰の醸す何かが媚薬のようにある種の女性にとっては作用する。

 逆に、太宰を嫌悪する女性にとってはその甘えぶりに腹が立つのだと思う。

 

 

 じゃあその「何か」とは何か。

 

 こればかりは説明がつかない。

 強いていえばフェロモンに近い化学物質ではないだろうか。その化学物質が、母性の強い女性には「護ってあげたい」と思わせ、自滅傾向の強い女性には「いっしょに地獄へ堕ちたい」と願わせる。

 

 そのフェロモンを嗅ぎ取るか否かは、男性(太宰)側の問題ではなく、受け取る側の問題で、私にはそれをキャッチせざるを得ないセンサーが備わっているということだ。

 

 もしかしたらそれは私の鬱とも繋がるのかもしれない。

 それで太宰をおのれの自我体制にとって肯定的にとらえることになるわけだけど、そこを突き詰める元気は今はないのでやめておく。

 

 

 最後に。

 村上春樹からフェロモンは一切出ていない。

 おそらくハルキストの中にもそういう意味合いで心酔している人はいないはずだ。

 

 

 

【読書感想】#201津村記久子『この世にたやすい仕事はない』│仕事との距離感、同僚との距離感

 

 

 新卒で入った会社をはじめ、私は何度も転職してきた。

 今でこそ終身雇用なんて神話でしかないような世の中だけど、最初に勤めた会社を辞めた時はまだまだそれが厚く信仰されていた時代で、両親はともかく、私の就業状況となんの因果もないような大人にまで大反対された。

 

 超氷河期にせっかく入った会社なのに。誰もが知ってる安定の大企業なのに。何年か続けていればそのうち社内のエリートと結婚できるかもしれないのに(3つ目ははっきりと言葉にはされなかったが、たぶん本心としてあったと確信している)。

 

 それ以降、派遣で、バイトで、契約社員で、正社員で、と様々な雇用形態ではあったがだいたいは「会社」というところで仕事をした。

 

 辞める理由やタイミングは、どうしてもそこにいられないという深刻なものではなく、引っ越しと同じでなんとなく環境を変えたいとか、取り立てて支障はないが飽きたとか、そんな程度のことだった。

 

 

 私には、“好きをシゴトに”といういわば夢というやつがない。

 かつては好きなことでお金を稼げたらいいなあと漠然と思ったこともあるし、じゃあそれって何だろうと考えに考えたこともある。むしろそれに捕らわれていたと言ってもいい時期だってあった。

 

 

 けど、気づいたのだ。

 私にはこれといって職業としての夢はないのだと。

 

 なるべくストレスのない仕事及び職場環境で、生活に困らないくらいのお金をもらえればいい、その程度のモチベーションしかないのだ。

 そうはいっても日に8時間・週5日働けば疲れるし、こんな生活やめたいとも思うし、実際33歳で一旦リセットすることになった。

 

 もともと企業の歯車ですらないような仕事しかしておらず何者でもなかった私が、会社員をやめてさらに何者でもなくなった。

 その状態でインドやネパールでふらふら過ごしていたら、“好きをシゴトに”しているような人たちにたくさん出会った。

 

 当時はそういう生き方に憧れ、私もそんなふうになりたい、じゃあ私は何がしたいのか、何ができるのかとさんざん迷うことになったのだが、結局私はなんだって良かった。

 

 一時帰国して数日あるいは数週間の短期的かつ一時的な仕事をいくつかやったこともある。

 梅の実のピッキング、洗顔石鹸の検品、珈琲の移動販売、陶芸工房のお手伝い等、会社員ではない仕事ばかりで、それなりに大変だったしそれなりに楽しかった。

 

 さらに時が経って、今また私は「会社」というところに戻り、最低限のストレスと給料で生活を回している。

 やり甲斐なんて高尚なものはない代わりに身を削るような辛さもない。

 だいたいのことが「まあ悪くないな」で済む。つまり大きな不満はないある意味ぬるま湯に浸かった暮らしがもう5年以上続いている。

 

 

 随分前置きが長くなってしまった。

 

 

 この小説は、主人公が長い間してきた医療ソーシャルワーカーという職業から逃げて、短期の仕事を転々としているという話。

 

 その仕事というのが、どれも一般の求人情報では見たこともないような変な仕事ばかり。

 でも言われてみれば確かに誰かがやっているはずなんだよなあ、ていうか世の中って実はそっちの方が多いのかも、とも思う。

 

 中でも私がやってみたいと思ったのは、「おかきの袋のしごと」と「大きな森の小屋での簡単なしごと」だ。

 

 おかきの方は、おかきの袋裏に印刷してある「〇〇豆知識」の文言を考える仕事。

 袋裏に書いてある情報のために購入することはないのに、書いてあったらつい読んでしまうあれだ。

 

 まああってもなくてもいいけれど、あったら「へえ~」なんて思ったりどこかで豆知識を披露してみたくなったり手持無沙汰な相手との会話の助けになったりする、というのがメーカーの狙いだと思うのだけど、食品のパッケージに成分や食べ方とは無関係の情報を載せるというアイディアは、いったい誰がいつ考えついたのだろうか。世界中でそんな物を作っているのは日本だけではないだろうか。

 と、今まで考えたことのなかったお菓子の袋裏についてついあれこれ考えてしまった。

 

 

 森の仕事は、巨大な公園の管理事務所での仕事。

 公園内の小屋に「基本的にいるだけ」で、暇つぶしに展示会のチケットにミシン目を入れるとか、周囲を散策して何か見つけたら地図に書き込むとか、本当に「簡単なしごと」である。

 

 静かな森の中の小屋で、多くの人に煩わされることがなく、好きなだけ散策もできる。

 これぞまさに私の理想! と思った。

 こんな求人があったら給料がどれだけ安くてもやりたい。

 

 

 ああ、そうか。

 私のしたい仕事って、そういうやつか。

 

 と気づいたところでこんな求人は実際なかなかお目にかかれない。

 少なくとも「会社」ではないところで働かないと叶わないわけだけど、一体どこにそんな仕事があるのかもわからない。

 

 私が住んでいるところは360度見渡しても山ひとつ見えない場所なので、せいぜい休暇に森の中のリゾートに行ってリフレッシュすることしかできていない。

 でもちょっと本気でこの夢を実現させたい、そんなふうに妄想がはじまっている。

 

 

 妄想はさておき、この小説の本質は一風変わった仕事そのものではなく、仕事との向き合い方、そしてどんな職場でもそこにいる人とのかかわり方だ。

 

 

無糖のもので、確かに私にとっては、買ってまで飲みたい商品ではないのだが、どうも腰の低い風谷課長に申し訳なくなってきて、受け取ることにした。たぶん、悪い人でもないのだろうと思う。まあ、職場の人間は、シチュエーションに応じて悪人になるので、常に悪い人というのもいないのだが。

 

できるだけ長く、江里口さんと働けたらいいな、と思っていたのっだ。しかしその願望は、けっこう軽い感じで絶たれてしあった。

 しかし、そりゃ江里口さんにも人生設計があるしなあ、と私はすぐに気を取り直した。

 

 へえ、と私はうなずきながら、自分はまったく盛永さんについて知らないな、ということを思い出す。べつに知らなくていいのだ。結局、仕事相手については、仕事の場でのインターフェイスさえちゃんとしていれば裏でどんな人間であってもいい、ということには、外で給料をもらうようになって二年もしたら気が付く。

 

 

 

 私自身、同僚は同僚で友達ではない、と一線をおいてきたし、今もそういうところがある。

 友達になりたくない、というのとも違う。

 たまたま同じ職場にいた人と仲良くなって、プライベートでも交流を持つということもなくはないし、社内恋愛なんてその最たるものだったと思う。

 

 けれど、やはり根本的には仕事の場における人間関係と私的なものは分けておきたいという姿勢を自然と取っている。

 Z世代なんかじゃなくても職場の飲み会というのが新入社員の時から嫌いで、どうしても参加せざるを得ない場合(本当はそれすらあるわけないと思っているが)以外は断っている。

 

 嫌でも毎日のように顔を合わせているのに、勤務時間以外にも会って何が楽しいんだ。

 どうせ社内の噂話や誰かの悪口、あるいはどうでもいい仕事の話しかしないのに。

 それでも飽きもせず仕事終わりに同僚とつるんで飲み歩くのが楽しくてしょうがないような人たちは幼稚な暇人にしか見えない。

 

 こんな毒を吐くのは私の方が拗ねているだけで、冷めたふりして寂しいのかも? と自分に問うたこともあったけれど、この主人公の距離感に完全に同意しかなく、ほっとした。

 

 

 誰にでも複数の顔があるうちの、「職場での私」という面だけを見せ合っている。

 もしかしたら、え、そんなこと考えてるの?! そんな一面があるの?! と驚くようなこともあるのだろうけど、仕事に支障さえなければ問題ない。

 相手にとっての私も同じで、会社から一歩出た後の私がどうであれ彼らにとってはどうでもいいだろう。

 

 

 やっぱり私は冷淡なのかなあ。

 

 

 ほっとしたものの、その疑問は残ったままである。

 

 

 

【読書感想】#200花村萬月『鬱』│狂えるものなら狂いたい

 

 

鬱 ウツ・しげる

むんむんするほど木が茂ることを意味し、また、ひいて、はけ口がなく、悶々とする意となった。――角川緩和中辞典

 

(字音語の造語成分項目より)木が茂って空が見えず、草が茂って、むんむんする形容。①心配などを紛らすものが無く、心が晴ればれしない様子。②⇔躁(ソウ)[鬱病]の略。――三省堂新明解国語辞典

 

 

 ところで私は慢性的な鬱である。

 

 生来の気質も相まって、28歳頃にわかりやすく表層化し、数年後には自らどん底に落ち(『ラッフルズホテル』(村上龍著)参照)、時間をかけて一つひとつを再建していったが結局それら――仕事であり生活であり人間関係――全てを置いてインドへ行き、長い旅の間に心身ともに健康になったように見えたが鬱的自己が消滅したわけではなく、今に至っている。

 

 最も酷い時のように何らかの薬を服用したり、服用したはいいが今度は合わない薬の副作用に苦しめられたりなんてことはもうないし、通院しているわけでもないので、あくまでも鬱状態(鬱病ではなく鬱状態)である。

 

 なんにしても、鬱は私の一部分であり、治そうと思うこともないくらい自然になっている。

 

 

 しかしここで不幸自慢をするつもりはない。

 私はタレントやYouTuberが「実は(本人あるいは家族が)〇〇障害を患っている」とか突然告白する、あれが嫌いだ。

 一体何のために、誰も訊ねていないのに、わざわざ発表する意味がわからない。

 

 

 自分のような影響力を持つ人物が公表することによって同じように苦しんでいる人を救いたい?

 本当に? 本当に、そのために? あなたがかまって欲しいだけじゃなくて?

 

 

 私の場合、ここで慢性的鬱状態であることを記したところで得るものは何もない。

 ただ、この小説を読んだことによって、自分にはそういう面があることを見直しただけのことだ(そもそもそういう一部があるからこそこの本が目にとまったのだとも言える)。

 

 なので私自身について具体的なことを書くのは控えるけれど、鬱というのが病としての意を持つ前に草木がむんむん茂っていることを指す言葉だというのは言い得て妙で、私の精神も鬱蒼とした森のようであることに違いはない。

 つまり、常に燦燦と太陽の光が降り注いでいる状態ではない、ということだ。

 

 

 

 さて、冒頭の引用ではじまるこの小説は、二人の語り手によって成されている。

 

 一人は、舞浜響という小説家志望の青年。

 舞浜響というペンネームをさも本名のように名乗っているが、ただのパン工場のアルバイトでしかない。

 もう一人は、平河由美枝という女子高生。

 病的なまでの読書好きで、頭の中は無数の知識が渦巻いていることをひた隠しにしながら馬鹿なJKを演じている。

 

 響も由美枝も狂っている。

 響には日の目を見ない夢追い人の狂いがあり、由美枝には抽んでた感性を持つ者特有の狂いがある。

 

 

 狂っているというのは、正直であることと同義だ。

 

 

 私は自分の一部である鬱を、許容はしているが関わらないようにしている。

 極力着目せず、しかし追放はしない、適度な距離を保つよう意識している。

 つまり私は分身に誠実とは言えない。目を逸らして誤魔化している。そうしていれば狂わないでいられると知っているから。

 

 響と由美枝は違う。

 とことん自己と向き合い、過剰に正直でいる。

 だから、狂う。

 

 正直すぎる彼らが生きている現実社会はどうしようもなく理不尽で優しくない、だから、狂うしかない。

 

 それが圧倒的な勢いと圧迫感で書かれていて、作者の凄みを感じずにはいられない。

 私の苦手とするエログロ描写が多いにもかかわらず、それはさておき耽溺させる力がある。

 

 

 

そして、問題は、現代のいわゆる道徳律や倫理というものが、なぜ弱者救済をかかげているのだろうかという本質に突きあたる。言い方をかえれば、なぜ、現代の道徳律や倫理が弱者の論理で、つまり大多数の論理で成りたっているのだろうかという疑問と対峙させられる。弱者の論理から漂う、どうしても拭いがたい悪臭は、皆も薄々感じているとおり、偽善臭だ。

 

 

 優位に立ちたい。支配したい。影響力を行使したい。向かいあう対象への差別が虚構であるにしろ、相対的に自分の立場を引きあげたい。この愚劣な創作には、人の本能的とさえいえる表現衝動に、意識、無意識が判然としない判断停止が組み込まれている。判断停止のある場合には確信犯的な居直りがみられ、ある場合には愚かな無知が濃厚に匂う。そしてほとんどの場合には確信と無知が仲良く同居して愚劣に奉仕する。

 

 

 記録しておきたいところが多すぎて収拾がつかなくなりそうなので、最後にもう一つだけ。

 

なぜ、小説という表現はここまで衰退してしまったのだろう。小説家という人種は、すぐに映像だのなんだのと他のジャンルに責任転嫁するが、それは誤りだ。たぶん大衆小説というジャンルがいけないのだろう。その他大勢のための小説。そればかりがもてはやされ、エンタテイメントという名の堕落がはじまった。万人に受け容れられる親切な表現は、それだけで表現の自殺だ。だが、昨今の読者というものは、オチがちゃんとついていないと納得しないという。すべての要素が、きっちりと収束し、ケリがつかないと落ち着かないという。泣かせどころできっちり泣かせてくれる、あざとくクサい小説が人気を博し、すべての事件が最後には偶然の力を使ってまでもきちっと解決する作品が売れるのだ。つまり彼らにはいつまでたっても桃太郎や猿蟹合戦がお似合いなのだ。

 

 

 一番温度が高く感じられた、響というより小説家としての著者の鬱憤とも受け取れる箇所。

 

 この小説は絶対にその他大勢がもてはやす大衆小説ではないことは確かで、だけど私にとっては頭をガツンと殴られるような一作だった。

 

 

 

【読書感想】#199京極夏彦『死ねばいいのに』│バカなふりした策士こそ死ねばいいのに

 

 

『オジいサン』(同著者)を読んだことによって再読熱が湧いた一冊。

 

 アサミという女性の死を巡って、ケンヤと名乗る青年がアサミを知る6人に会いに行き、彼女がどんな女性だったのかを訊ねる。

 

『悪女について』(有吉佐和子著)『アパートの殺人』(平林初之輔著)と同じく、アサミ本人はもう死んでいるので出てこず、関係者の話から人物像が浮き上がる……はずが、語り手はアサミのことを話しているようで、話していない。

 

 ケンヤ曰く「みんな自分の話ばっかり」だ。

 

 ケンヤと話しているうちに、語り手はみな、日々溜め込んできた不平不満を嘆かずにはいられなくなる。

 彼らの吐き出す文句に対し、ケンヤは本当過ぎる本当のことをぶつけ、彼らは更に言い訳を重ねていく。

 

 このやり取りを、最初に読んだ時は一種のカウンセリングみたいだと思ったし、ケンヤの正論は世直し奉行のようにも見えたのだけど、今回は全く違う印象を持った。

 

 

愚鈍を装った策士

無邪気なふりをした糾弾

 

 

 ケンヤはいつも「俺なんか頭わりーし」「馬鹿だから」とおもねり、腰低く話をし始めるが、だんだんと相手の弱みや秘密に迫り、最終的には自責の念を与える。

 これのどこが「頭悪い」のか。むしろ小狡いやり口で断罪しているじゃないか。

 

 そういう目で見ると、「○○っす」「○○じゃねーし」というデフォルトの若者言葉も相まって、過剰な卑下が鬱陶しい。

 

 これって、「言ったもん勝ち」といわんばかりに被害者面した実は強者みたいだ。

 最近よくあるなあ、この構図。

 

 

 そもそもケンヤが6人を追い詰める目的がわからない。

 殺されたアサミの仇討ちでは、絶対にない(物語上これは確か)。

 まずケンヤとアサミは4回会っただけの知り合いでしかないわけで、アサミの関係者にいずれの感情を持つ間柄ではない。

 なのにわざわざ6人を探し出して責問する意味が本当にわからない。

 確かにそれぞれ褒められた人物ではないのかもしれないが、見ず知らずのケンヤに追及されるいわれはないはずだ。

 

 こんなサイコパスに心の隙間に入り込まれてたまるかよ、そう思った。

 

 ではなぜ嫌な奴らをやっつけるヒーローに見えていたケンヤがタチの悪いいじめっ子にしか見えないという真逆の現象が起こったのか。

 

 明らかに見る側(私)の目が変わったからだ。

 

 加齢というのは経験値が増えることでもあり、自分自身の内面を見つめる時間も増え、結果、人間の弱さもより多く知ることに繋がる。

 

 だから、6人の闇の中にも理解できたり共感できる部分がある。

 そういうことってあるよね、仕方がないこともあるよね、と寄り添える。

 なんでもかんでも正論で斬れないのだ。

 

 

 それを「じゃあ死ねばいいのに」と、私には思えない。

 それでも生きているから生きていくしかない。

 

 

 

 

【読書感想】#198アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』│自己正当化×支配欲の最強にして最悪のコンビネーション

 

 

 ぐぬぬー

 こんな……こんなものを送ってくるなんて……やってくれたな。

 

 というのはこの本を送ってくれた友人に対する恨み節ではない。まぎれもない謝辞である。

 つまりそれは感想を書きたい思いと書く難しさの両方に悩まされることでもある。

 

 

 少々強引に整理するならば、私の感情は苛立ち、苦しみ、爽快感の三つに分けられる。

 

1.苛立ち

 

 ここで自分の生育史について、ぐだぐだと鬱陶しく語るつもりはないが、私がこの本にこれほど惹かれたのは結局のところ、この本の《ヒロイン》である(アンチ・ヒロイン、というべきかもしれないが)気の毒な(とあえて云おう)ジョーン・スカダモアを連想させるような家族を私が持っていた、ということとは切り離して考えられないだろう。

 

 解説(これがまた秀逸!)にこうあるのだけど、まさに私も主人公・ジョーンを連想させるような家族を持っていた一人だ。

 なので、ジョーンに対する苛立ちはそのままその人への苛立ちに重なる。

 

 序盤は、模範的な主婦の概ね幸福な、それでもまあ紆余曲折もないわけではない結婚生活の話? アガサ・クリスティーってこんなのも書くの? なんて思っていたらそんなわけはなく、まずこの主人公・ジョーンが呆れるくらい自己評価の高い傲慢な主婦だった。

 

 

どこまでも自分に都合よく物事を捏造する天才

 

 

 いわゆる自己満足というやで、自分が正しいものが絶対であり、他者をも自分のものさしによって正そうとする。

 

 

自己正当化×支配欲の最強にして最悪のコンビネーション

 

 

「ほら、ごらんなさい! そんな割のいい申し出をお断りするなんて、とんでもないことじゃありませんか!」

 ジョーンは有無をいわさぬ口調で、きっぱりこういいきったのだった。

(中略)彼女は強く、自信にみちた自分を意識し、ロドニーに対して母性的な愛情を覚えていた。

 

 

 弁護士の仕事よりも農場をやりたいのだ。子供たちにとってもそれはいい環境になるに違いない。という夫・ロドニーを必死で説得し、最終的に夫が折れたことでますます自己正当化を強めるジョーンの言動は、私の父親が女だったらこうだったであろうそのものの姿だとすぐに思い当たり、最後までその連想は裏切られることはなかった。

 

 全部自分が正しくて、意見の違う他人の話はにべもなくブロック。なぜならあなたのことを思えばその方がいいからなのだとさらに正しさを上塗り。あなたが正しい方向に行けないから軌道修正してあげているのよと恩まで着せる。

 

 全く同じ押し売りを長年家族にやられてきた苦痛をどうして思い出さずにいられようか。

 しかも主婦であるジョーンと違い、家族の経済を握っている立場の人にやられれば、そこには「誰が稼いでると思っているんだ」「誰のおかげで生活できているんだ」というパワハラが加わり、「嫌なら出ていけ」という切り札を持たれているからもっとたちが悪い。

 

 

 もちろん私とて黙って従っていたわけではない。

 ジョーンの子供たちのように、反論し、歯向かい、抵抗した。さんざんした。今思えばそこで浪費したエネルギーと時間は私の人生で最も無駄なものだった。

 そこまでしたとて相手が考えを改めることはないのだから。

 

 ついでに言うと、「真実すぎることを言ってはいけない」ということもだいぶ大人になってからだが学んだ。

 

 ジョーンにも、彼女の欠点を指摘する人物がいた。一人は女学院時代の院長、もう一人はやはり女学院の同級生だ。

 もちろんジョーンは院長の指南にも同級生の皮肉にも耳を傾けない。

 けれど、後に彼らから言われたことが何度も脳内で再生される、反省に繋がるくらいの爪痕は残されていた。

 

 が、同じことを下層に属する者がやっても効果はない。ないどころか、逆効果でしかない。

 自分が支配できる(支配すべき)と信じて疑わない立場の者からの真っ当な指摘というのは何よりも受け容れ難く、反発が大きいからだ。

 その反発からむしろ指摘に対する拒絶は強まりますます傲慢な態度になるだけで、しかも無意識的には核心を突かれた痛みがあるはずだ。

 

 経験上私は、「刺してしまった」と感じたことが何度かあるが、事態は何一つ変わらなかったから、やはり無駄撃ちでしかなかった。

 

 

2.苦しみ

 

 物語としては、この自己満女が砂漠の駅で数日足止めをくらい、たった一人で過ごす時間が意図せずできたことにより、自分を見つめなおすというもの。

 強制的に瞑想状態に陥ることによって、ジョーンは自分が正しいと思い続けてきたことが実は周りからはそう見えていなかったのではないかと気づき始める。

 

 

 本当に――とジョーンは考えるのだった……子どもを育てるって、誰からも感謝されない、厄介な仕事だわ。もっと認められてもいいのだ、母親の努力は。これでなかなか微妙な心遣いもいるし、こっちの気分にむらがあってもいけない。断乎譲ってはならないとき、あっさり折れるべきときを心得ていないと。

 

 

 ああ、そっち側の人はそういうつもりだったのか。

 

 自分の家族の思考回路が垣間見えるような場面では、知りたくもないものを知ってしまったという感覚になった。

 

 知ったところで、もっと感謝をするべきだったとは思わない。

 そういう意味での苦みではなく、むしろ、どうしたらそんな勘違いができるのか理解に苦しんだ。

 

 いずれにしても、時すでに遅し、である。

 今更そんなこといったって、あなたがこれまで振る舞ってきた行いは消えないし、もしかしたら存在していたかもしれない家族間の交歓は取り戻せない。

 

 

 3.爽快感

 

 とにかくそういうわけで、私はこの主人公に終始腹が立ち、本人は気づいていない(気づきそうになるとすぐ否定し回避する)としても周囲が彼女を疎む様子を見せればすっとして、彼女が幸せでなければないほどざまあみろという気持ちになった。

 

 解説の方の配偶者や読者の感想には「ロドニーは卑怯だ」という意見少なからずもあるようだ。彼はこのような妻に向き合おうとしていない、逃げている、と。

 

 しかし私は、私もロドニーのように逃げれば良かった、そう思っている。

 逃げるというのは語弊があるなら、適当にあしらえば良かったと言い換えてもいい。

 それはこの物語の結末で確信となった。

 

 結局、どんなに自己を見つめなおそうが、人間はそう簡単に変わらない。

 ましてや家族であれ他人を変えることはできない。

 それなら私も自分の家族のことを「どこまでも孤独な人」として諦め、早々と折れたふりをして、水面下では好きなようにするという戦法を取るべきだった。

 

 ロドニーは農場経営の夢を果たせなかったけど、傷を最小限に抑えるという自己防衛には成功している。

 一方、私は家族に真摯に“向き合った”つもりはないが、真っ向から対峙してしまったあまりに心を削られ疲弊していた。にもかかわらず改善したことは皆無で、ただこうして後々まで痛みだけが残っている。

 

 だから、あのジョーンが数日間の幽閉により改心し、家族仲を修復させ、幸せな生涯を終えました、という話でなくて本当に良かったと思っている。

 

 

もう一度言う。ざまあみろ!

 

 

 

余談:サスペンス=船越英一郎=崖 そんな連想が真っ先に浮かぶ世代の私は、人が殺されなければサスペンスではないと思い込んでいた。

だから、誰も死なないこの小説もサスペンスとは別のカテゴリだと思っていたのだけど、心理サスペンスというのがあるらしい。

 

AI曰く、「サスペンスとは、物語の登場人物や観客に不安感や緊張感、ハラハラする気持ちを持続させる心理状態、またはその状態を引き起こす表現技法やジャンルを指します。」ようで、人が殺されるかどうかは関係ないみたい。