乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#167 乱歩氏の諸作/日本の近代的探偵小説ー特に江戸川乱歩氏に就てー  平林初之輔著

 

 

 私は今怒っている。

 頭のてっぺんからプンプン音がしそうなくらい、怒っている。

 なぜならこの平林某が、私の敬愛する江戸川乱歩大先生を批判しているからだ。

 

 江戸川乱歩といえば、私の読書歴において絶対に外すことのできない、人生を変えられたと言ってもいいほどの人物。

 その乱歩先生(私が小説家に対してこの敬称を使用するのはおそらく生涯乱歩だけ)の悪口となったら許さんぜよ!

 

 

 まず気に入らないのは、『乱歩氏の諸作』では「悪夢」と「孤島の鬼」と二つ読んだ、とはじめているが、「孤島の鬼」に関してはまだプロローグしか読んでいないことがわかり、にもかかわらず、やがて発展すべき事件の怪奇さを、作者が何回もくりかえして予告的説明をしているのが眼ざわりである。と実にいい加減なことを偉そうにのたまっている。

 

「悪夢」(※芋虫の改題)については、それにもかかわらず氏の筆には新鮮味が甚だ乏しく、常識的といってもよい程な生温い、説明的な文章である。ときたが、具体的にどこがどうとは触れていない。

 批判するならその根拠を述べるべし。

 

 

『日本の近代的探偵小説――特に江戸川乱歩氏に就て――』の方(このタイトルからして、名指しで批判する気満々な鼻息の荒さが下品)では、日本の探偵小説全体を西洋のそれと比べてこれまた上から目線でむにゃむにゃ言っている。

 

 しかしここでも、私は谷崎氏の作品を一二読んだだけである。とか、遺憾ながら、私はまだ読んでいない。とかたいてい読んでいるつもりではあるが、記憶に残っていない。とか、冗談かと思うくらいの手抜きっぷり。

 

 

 じゃあ言うなよ!

 

 

 と思いながらいよいよ乱歩への攻撃を読むと、今回は一応「D坂の殺人事件」「心理実験」「黒手組」の三作について具体的な例を挙げてはいるが、今度は明智小五郎に難癖をつけている。

 

 明智小五郎こそ、乱歩作品の代名詞ともいえる登場人物であり、読者にとっては乱歩の分身的存在でもある。

 

しかし、シャーロック・ホームズが中年を過ぎた、理知そのもののような風貌を連想させるに反し、明智は、三十前後の、ぶらぶら遊んでいる、そして犯罪や探偵に関する書物を耽読しているいわゆる「書生」を連想させる。シャーロック・ホームズが大洋をまたにかけて、印度の神秘教から、ロンドンの下町の隅々にまで活躍するに反して、明智の活動舞台は、東京の山の手に限られている。

 

 中年の探偵が名探偵であるとは限らず、金銭的に余裕があってぶらぶらしている者が推理に長けていないということでもなく、活動範囲が自宅近辺というのも能力とは全く関係がない。

 どうもこの平林某の指摘は的外れでしかない。

 

 

 明智のことを「素人探偵」と呼び、シャーロック・ホームズと比較して劣っているように言っているけれど、本当は明智を生み出した乱歩に気が狂わんばかりの嫉妬しているんじゃなかろうか。

 

 事実、没後60年近く経った今も、乱歩の書いた数々の名作は愛され続け、片や平林某なぞ誰も知らないではないか。

 私はこんなものを読んだとて、乱歩先生への敬意も明智への憧憬も一ミリも揺らがない。

 

 

 そして、平林某に言いたい。お前は、誰だ。

 

 

#166 夫婦茶碗  町田康著

 

 愛すべき屑男を書いた名作。

 

 屑とはなんぞや。定義は人それぞれ。

 所謂「飲む打つ買う」がその典型ではあるが、この小説の主人公はまあとにかく働かない屑。

 しばらく働いたとしても、すぐ辞める。即ち生活力に欠ける屑。

 なのに憎めない、むしろ可愛いいとさえ思ってしまうのは私だけではないはずだ。

※なので、以下登場する「屑」及び「屑男」はdisrespectではなくご愛敬を含めた呼び名です。

 

 

 屑のくせに冷蔵庫の鶏卵ポケットの並びには強くこだわる。

 急に家庭に「うるおい」のルールを作る。

 息子が産まれ、閃きだけで「靴」と名付ける。

 

 

 私的には太宰治(及び作中のダメ男)を赦してしまうのと同じスイッチが発動しているだけなのだけど、これって世の男性からしたらものすごく不可解且つ不愉快な現象なのかなと、ふと思う。

 

 一般常識をわきまえて、真面目に会社に行って、こつこつ貯金もして、それなりに容姿にも気を配っていて、それでもなぜかモテない男たちの妬み嫉みの声を聞いてみたい。

 

 そして言いたい。

 おそらくこの主人公にあってあなた方にないものは、可愛げと色気なのだと。

 

 

 しかし、屑男に惹かれる=屑男と添い遂げる素質がある、ということではない。

 私の屑愛好歴(というほど多くはないが)は、高校時代の彼氏からその兆候が見えはじめ、大人になっても何度か屑男に吸い寄せられては振り回されてきた。

 

 もちろん「この屑め!」と思っているのではなく、振り回されたと言っても相手がそう望んだのでもない。私が、そうしたかったのだ。と全て自発的なものだと思えるところまで含めて屑に溺れる。それが幸か不幸かは別の話。

 

 中でも、ネパールという小さな国で出会った人(現地人)との恋はままならないものだった。

 その人も、働かない屑だった。

 

 とはいえ、そこはお国柄というか、国全体が物資もエネルギーも何もかもインドに頼らずには成り立たないような国なので、日本人の目から見れば「ちゃんと働いている人」なんてほんの一握り。

 地道に農作業や観光業に精を出す人々は存在しているけれど、街には「この人はいったいどうやって生計を立てているのだろうか?」と思うような大人がぷらぷらしている。

 彼らには、働かないというよりは働く気があったとしても働けない(就職という概念すらなさそう)という側面があるのだ。

 それでどう見ても経済的余裕はないはずなのに、食うには困っていないというか、仲間内で「その時」お金を持っている人が出す。無い人は、出さない。それで言い争いにもならない。悲壮感もない。

 

 私の彼もそういうぷらぷら系の人で、一時的にトレッキングガイドとしてツーリストから高額な収入を得たり、得たかと思えば豪勢に瓶ビールを周りにも振る舞い、金が尽きればまた収入がない日々が続いたり、とにかく安定しない生活をしていた。

 

 ただ、「日本人は金持ち」幻想がまだまだ強かった時世にもかかわらず、私には1ルピーもせびったりすることがなかったのと、なにより見た目がものすごく良かったのでしばらく一緒にいた。

 

 が、私とて無収入のバックパッカーで、いくら物価が安いといっても貯金が減っていくには変わりはなかったので、どうしたら彼との暮らしが安定的に持続できるか頭を悩ませていた。

 

 結論からいうと、無理だった。

 そこに至るまでのこと全部は書ききれないけれど、「無理」のジャッジは国勢のせいではなく、彼の根本的な屑なところにあった。

 

 いくら私が真剣に考えて、打開策としてやるつもりもなかった仕事を始めてみたりもして、それで莫大なストレスを受けて精神をすり減らしても、彼は何もしなかったし、何も変わらなかった。

 基本的には優しい人だとか、うっとりする程のイケメンだとか、そんなことで相殺できる余裕は私にはなかった。

 

 最後のきっかけとなったのは、私が後にも先にもないようなバッドに入ってしまったこと。

 相変わらずへらへらと生きている彼の眼を見ていたら、形容し難い恐怖に襲われて、気づいたら「Help meeeeeee」と叫んでいた。

 

 前後の記憶は飛んでいるけれど、それ以降、私は静かに彼から離れていった。

 

 

 そんなことを思い出しながらこの小説を読んでいると、主人公の妻の鷹揚さと許容範囲の広さに脱帽する。

 

 

「なにが原因よ。なにが経緯よ。あなたが昼間から酒ばかり飲んで働かないからこんなことになるんじゃないよ。この唐変木或は馬鹿」

 

 こんな罵声を浴びせるわりに、夫の突拍子もない言動に対して「は?」と疑問は持ちながらも却下はしない。

 

 十数年経っても、じゃああの時私はどうしたら彼と居れたのだろうか、あのままネパールにいたらどうなっていただろうかと、詮無いことを考えたりする。

 

 ちょっと奥さん。

 最後の最後は信用できるような核となるものがあるのか、こんな人でもいないよりマシと思っているのか、私がもっと楽観的な人間なら良かったのか、数々の疑問を質したくなる。

 私に足りないのは、屑の一人や二人どんと養ってやる!という経済力だと思っていたけれど、どうやらそうではないから。

 

 

 百貨店を出たわたしと妻は、タイ料理屋で飯を食って家に帰った。

 仲良く腕を組んで。

 

 

 この場面で言い様もなくぐっときた。

 こんな屑夫が身近にいたら妻はたまったもんじゃないだろうと思っていたけど、なんだ、愛に満ち満ちているんじゃないか。

 

 茶柱は立つ。否、もう立っているよ。

 

 

#165 ユーチューバー  村上龍著

 

 

 村上龍の最新刊となったら入手必須。しかも紙の本で。

 

 とはいえ、そうタイミングよく古本屋にあるかどうかは運次第。

 過剰に期待しないようダメ元ぐらいに気持ちを抑え気味で行ったら、黄色い背表紙が新刊コーナーにしっかり並んでいるではないか。

 海を越えて運んで来てくれた人よ、本当にありがとう!

 

 

 村上龍×YouTube 

 

 この組み合わせの妙。

 

『共生中』を書いたことでもわかる通り、インターネットに疎い高齢者なんかでは決してなく、むしろITに明るい人だ。

 

 それにしてもYouTubeという題材は意外というか、どんなものなのか全く予想できず、もうとにかく早く読むしかない。

 

 

 さて、この作品にもまたお馴染みの矢﨑健介が出てくる。

『メランコリア』『エクスタシー』タナトス』のヤザキ、『69 sixty nine』の矢崎剣介、『はじめての夜 二度目の夜 最後の夜』のヤザキ、『長崎オランダ村』のケン……それぞれ別の人物ではあるが、著者を投影していると思わせるヤザキが登場すると、お、またヤザキだな、と久しぶりに旧友に再会したような感覚になる。

 

 ご自身も「わたしの分身である主人公」と(何かのインタビューで)言っているので、ヤザキが村上龍の分身であることは間違いない。

 が、矢﨑健介=村上龍ではない、とも言っている。「そう思っている人は、作家に騙されているんです」と。

 

 私にとっては、嘘99%:真実1%だろうが、そこは大きな問題ではなくて、ヤザキの物語のどこかに村上龍としてのリアルが組み込まれている、それだけでわくわくする。

 

 

 登場人物は70歳になる作家・矢﨑健介と、会社を辞めてユーチューバーになることにした自称・世界一もてない男、それから矢﨑といつも一緒にいる女のほぼ3人。

 

 

そう言えば、いつもいっしょにいる三十代か四十代か五十代の女がいない。

 

 三十代か四十代か五十代の女、という表現がまさに村上龍

「年齢不詳」でもなく、「四十代だと思うがもしかしたら三十代」でもなく、「三十代から五十代」でもない、でもそう言われれば三十代か四十代か五十代に見える人というのは確かにいて、そうとしか言いようがないと思わせる説得力がある。

 

 このようなさりげない描写の綿密さについては『ストレンジ・デイズ』の感想でも書いている。

 

 

彼女の仕事は、銀行で、資産家の相手をしているらしいということだった。カウンターでお札を数えたりする仕事ではなく、自分の部屋を持ち、富裕層の客を相手にしている。いろいろな仕事があり、たとえば絵画や家具の手配をしたりしているらしい。

 

 銀行の仕事の一つに金持ち相手に絵画や家具の手配をするなんて本当にあるのかどうかはわからない。わからないけど、自分のような庶民が知らないところではそういう業務があるのかもしれないと、見たこともないし一生見ることもないだろうパラレルワールドにいる人々を想像してしまう。

 

 嘘か本当かわからないことなのにきっと存在しているのだろうと確信させる力はどこからきているんだろう。

 村上龍はその意味で詐欺師の素質があると言える。

 ずっとそう思っていたのだけど、同じインタビューで「ぼくは「騙す」ことに関してはほとんど天才的」と語られていて、やっぱりか! と納得した。

 

 

「変だな、こんなことを話したことがなかったんだけど、何か、胸につかえていたことを吐き出したような、そんな感じがするんだ。誰かに話したかったのかもしれないな。でも誰にも話そうとも思わなかった。ユーチューブで話すって、よくわからないけど、案外気持ちがいいのかな。これ、反応を聞けるのかな。つまり聞いた人の感想がわかるのかな」

 

 若かりし頃のエッセイでは「やあみんな、俺は今、マンハッタンの夜景を見下ろしながらこれを書いているよ」みたいなバブリーな俺様ぶりを見せつけていたあの村上龍も、齢を重ねて懐古主義になったのか?

 

『矢﨑健介 女性遍歴を語る』というユーチューブの撮影だから、当然過去の女性経験について語るわけだし、そこには自慢に聞こえるようなエピソードや蘊蓄も含まれてくる。けれども、昔のようなギラギラした雄っぽさはない。

 

 いや、騙されてはいけない。

 

 これを読んで、「村上龍も齢をとった」とか言うのは、天才的詐欺師にまんまと引っかかっているだけなのだ。

 

 

 でもこの人になら騙されてもいいか。同時にそうも思わせる、そういうところが男性としての魅力ともなって、ひいては女性遍歴が生まれる連鎖。

 

 

「自由」「希望」「セックス」

 

限りなく透明に近いブルー』からずっと村上龍が書き続けている3つのテーマは変わらない。

 青年が中年になり、中年から初老、そして高齢者になっていく変遷を経て、敢えて勢いを消すことで哀愁を漂わせている(ように見せている)だけに過ぎない。

 

 

 

 

 

#164 腑抜けども、悲しみの愛を見せろ  本谷有希子著

 

『子どものための哲学対話』の感想の最後に書いた、「別の本」がこれ。

 

 この感想をまとめようとしていた時にたまたま観たイチローのインタビュー動画の中に、「自己肯定感の高め方」をテーマとしているものがあった。

 

 インタビュアーの女性が、「どうしたら自分を否定せずに前向きに生きればいいか相談したい」と切り出してはじまるその一部を抜粋してみる。

 

 まず頭からイチローは「基本的に思い通りになんていかない」と答え、「自己肯定感という言葉を目にしたことはない。で、今回目にした。すごく、僕にとっては気持ち悪い。自己肯定、でしょ。気持ち悪くないですか? 自己肯定感っていい言葉なんですか?」

 と、「自己肯定感」という言葉とその意味に強い違和感を示している。

 

 そこから、「自分を肯定するのは僕はものすごい抵抗がある。僕の場合は、自分がやったこと、やろうとしたことに常に疑問符をつける。自己肯定感が強い人って、ストレスフリーに仕事しているとか、そういう感じですか? その人たちは人としての厚みが生まれるんだろうか。瞬間瞬間はいい仕事ができるかもしれないけど、自己肯定感が強い人たちは、おそらく今の風潮では、否定されないじゃない? 明らかにダメなのに否定されない。つまり、自分でも振り返らない、第三者からも厳しいことは言われない、そうなったら、人間は弱い生き物なので、僕は堕落すると思う。人が最悪になる時って、自分が偉いと思った時。最悪というか、魅力的じゃない。それが生まれるんじゃないか、これ強すぎる人は。」と持論を語っている。

 

 野球の知識ほぼゼロの私でも知っているくらいのスーパープレイヤーであるイチローほどの人ならどれだけ自己肯定感全開でも誰も反論できないのに、そもそも自己肯定感なんて気持ち悪いと明言する意外性が面白く、また、そこがイチローイチローたる所以なんだろうな、とも思った。

 

 

「自己肯定感を高めましょう」とあちこちでさも良いこととして掲げられるようになってもう何年かは経ち、もはやこすり倒されている感すらある。

 

 私はその趣旨は理解しているつもりで、つまり、「私なんて」「どうせ」といじけるのではなく、もっと自分を認め、愛し、明るく生きることを推奨しているのだということはわかる。

 

 ただ、やみくもに発せられる「ありのままの私!」という自我を嗅ぎ取ると、結果出してから言えよと引いてしまう。そういう人はなんか信用できない。

 

 だいたい自己肯定感って、「高めましょう」と意図してやるものなのかというところに疑問もあって、意図的に上がったものはもう自己肯定感ではなくてただの妄想なんじゃないかと思っている。

 だから、「自己肯定感を高めましょう」というフレーズが蔓延した時は、ナンバーワンよりオンリーワンの歌が爆発的にヒットしたのと同じうすら寒さを感じた。

 

 

 さて、なぜこんなことを書いているかといえば、本作に出て来る澄伽(女優志望)がまさにイチローと真逆の根拠なき自己肯定感100%の人物だからだ。

 

 自己肯定感「だけ」が高い故に、現実とのギャップを受け容れられず正当化する過程、それが崩れそうになった時の歪んだ対処、全てが滑稽であり、でも笑えないくらいえぐい。

 

 

あたしは最初から辞めるつもりだった。タイミングを逃していただけで、もともとあんな低レベルな役者の中にはいられなかった。没することができるような存在の女優じゃなかった。あたしは浮いたから辞めさせられた。一人だけ才能があったから妬まれた。あたしはあいつらとは違う人間。唯一無二の女優。

 

 

 私自身は『2days 4girls』(村上龍著)の感想にも書いた通り「自己評価が低い方」だ。厳密には、低いふりをしながら実はそこまでではないということを書いたのだけど、それでも決して高いとは言えない。

 

 なので、澄伽の「私は特別な人間だ」という確信には共感どころか、よくもまあそんなふうに思えるものだと感心しながら馬鹿にした目で見ていた。

 

 なのに、ただ「痛い女」だと笑えないのはなぜ?

 

 本谷有希子は、狂気を他人事にはさせてくれない。

 

あたしはちゃんと完璧だったのに。あんたがあんな漫画なんか描いたりしなきゃ、あたしはとっくに完璧な女優になれていたのに。

 

 とにかく自分は才能があり、完璧で、うまくいかない原因は全て自分の外――妹の清深、田舎の人間、劇団の人たち、あるいはタイミング――にあるのだと決めつけることは常識的に考えれば無理な話なのだけど、じゃあ私の中にそういう部分はないのかといえば、やっぱりある。残念ながらあるのだと、認めざるを得ない。

 

 恒常的に自分は完璧だとは思わない(思えない)にしても、自分が特別な何者かでありたいと願い何者かであるはずだと信じたい気持は私の意識下にもきっとある。

 

 自分云々は抜きにしても、何か思い通りにいかない出来事があれば、誰かや何かのせいにしたくなることも大いにある。

 

 時代のせい、環境のせい、親のせい……「私は悪くないもん」と思えるように仕向けなければ、ただ自分が苦しいだけになってしまう、と思い込んでいる。

 

 

 澄伽は確かに極端にいき過ぎている。

 裸の王様どころか、王様ですらないただの裸の人だ。

 そのことを、誰も教えてくれなかったから、ずっと裸のままだった。

 けれど、それでは済まされず、ついに自分が裸であることに気付く時は来る。

 

 

 自分に常に疑問符をつける

 

 

「自分は悪くない」とこじつけるのではなく「自分を疑う」ことが、結局は自分を前進させるのだと、イチローが教えてくれた。

 

 しかし対極にいる澄伽のことも、最後まで蔑みきることはできず、愛しさに似た気持ちすら抱いている。

 

 

#163 子どものための哲学対話  永井均著

 

 

ペネトレ」という名のおかしな猫と「ぼく」との対話形式で語られているので、まさに「子どものための」という感じになっているものの、実際は、子どもの頭を忘れてしまった大人のための哲学書というところか。

 

 大人でも「なぜ?」と思うようなことや、思うまでもなく「そういうもの」としてしまっていることを、改めてぼくが問いペネトレが答えている。

 

 例えば、学校には行かなくてはいけないか? 友だちは必要か? など、子どもの頃(まあまあ大人になってからも)私も考えたことあるようなことばかり。

 

 とはいえ、ペネトレは常に明快な答えを出すのではなく、結局うーん……と疑問を残すままになっていることが多い。

 これが正解! という答えに辿り着くことがゴールではなくて、色んな考え方があって、ペネトレは数あるうちの一つの道しるべみたいな役割。

 そして自分なりの考えを巡らせるその過程こそが「哲学」だ。

 

 

 私は思春期と呼ばれる年の頃、まだ哲学という言葉こそ知らなかったけれど、思考をこねくり回すことをし始めたように思う。

 

 ちょうど、『乳と卵』『夏物語』川上未映子著)の緑子のよう(母親が突然豊胸手術をするとか言い出すことはなかったけど)に。

 

 意識的にではなくて、それまで無邪気に「友達」としか認識していなかった人たちの裏にある厭らしい部分が急に見えてきて、同時にそれに対する自分の感情を観察するようになった。

 家庭内でも、父母姉それぞれとぶつかることが多くて、そういう時は相手の言葉や態度をいちいち分析して、より腹を立てていた。

 腹を立てる自分を鎮めるような哲学は、なかった。

 

 成人してからも続いているが、自分のこの感情は何だ、これは一体どこからきているのか、何にムカつくのか、なぜ悲しいのか、人生に意味はないとしてじゃあなんで生きていなければいけないのか、こんなことをしている自分はゴミ以下ではないか、必要のない存在ではないか……と、わりとというよりかなりネガティブ方向で思索する癖がついていった。

 

 それで見えてくることもままあったけど、やり過ぎて自家中毒というか、自分で自分を疲れさせることの方が多かった。

 

 中年になって良かったと思うことの一つとして、そこに費やすエネルギー自体が大幅に減った(つまりは面倒になった)ことと、大概のことを「まあしゃあないな」「どうでもいいか」といい加減に済ませられるようになったことがある。

 

 

 ただ、長年の癖というのは抜けないもの(別に抜く気もない)ので、嫌なことがあればその原因は考える。

 考えているうちに、こうこうこうだから嫌なのだとわかってきて、そこからさらに追及していくと、単に「嫌」という感覚もいろいろ種類があって、これは「苛立ち」これは「違和感」これは「落胆」これは「嫉妬」これは「価値観の相違」と細かいカテゴリー別に振り分けられる。

 

 

ペネトレ:よく気がついたね! ある感情がわきおこってきた原因をよく理解すると、その感情がうすれたり、消えたりすることがあるんだよ。つまり、頭でよくよくわかっていないから、いつまでも心でもやもや感じちゃうんだよ。

 

 

 ペネトレもこう言っている。

 

 私の場合は、正体が見えてくれば嫌悪感がすっと消えるなんてマジックのようなことは起こらないけれど、漠然とした「なんとなく嫌」よりはだいぶ落ち着くことができる。

 

 

 一方で、もっともっと何も考えずに生きたいという矛盾した願望もある。

 いちいち考えているとつい反省の沼に陥ってしまうのだ。

 

 なんでもかんでも面倒臭がって思考停止することは怠惰であり退化でもある。熟考しすぎてもそれはそれで疲れるしいいことばかりではない。要は加減の問題。

 

 

ペネトレ:だれも言ってくれないさ。ひとからはそんなこと期待してもムダだよ。自分の場合は、自分自身で「これでいいんだ」って思わないとね。ほんとうにそれができるってことが「強い」ってことなんだよ。

 

 

 結局バカボンのパパが最強説。

 

 周りから見たら、なんでそんな自己肯定感高いの? と不思議に思う人がいる。

 なんで? と思っている時、こちらとしては「よくもまあそんな図々しい」という蔑視が入っている。けれど一方でその人の強さにも見え羨ましくもある。

 

 そして今、別の本から「自己肯定感」についてあれこれまた思索がはじまっている。

 

 

 

 

 

 

#162 風の歌を聴け  村上春樹著

 

 

 英国人の友人と読書について話していた時のこと。

 彼はインドでこの本を見つけて読み始めたのだけど、つまらな過ぎて途中で投げ出したのだと言った。

 お互い村上春樹のいくつかを読んでいて、以前にも村上春樹の作品や著者本人についてあれこれ語り合ったことがある。

 

 私は、村上作品に出てくる会話は翻訳文でしか見ない言葉遣いで、実際私たち日本人はあのような言い方はしない。すごく不自然だし、作られ過ぎていて鼻につく。それに、だいたい主人公の男性が「ごく簡単に」スパゲティを茹でたりサンドウィッチを作って食べていることや清潔なポロシャツを着て、妙にこざっぱりしているところも気に入らない、と話した。

 

 彼は彼で、ムラカミは女性をobjectとして書いている。女性蔑視を感じる。と私とは全く異なる感想で、面白かった。

 

 

 そんなわけで、遥か昔に読んだはずのデビュー作をもう一度読むことにした。

 

 やっぱり主人公(大学生)はビールとサンドウィッチを食べているし、会話に含まれるウィットはアメリカのコメディを翻訳したような不自然さで、ある意味期待を裏切らない。

 

「……私のことを怒ってる?」

「どうして?」

「ひどいことを言ったからよ。それで謝りたかったの。」

「ねえ。僕のことなら何も気にしなくていい。それでも気になるなら公園に行って鳩に豆でもまいてやってくれ。」

 

 

 公園に行って鳩に豆でもまいてやってくれ?

 

 事の置き換えとしてこの喩えを聞くことは一生ないだろうと私は誓える。

(万が一、こんなこと言う人に会ったら何かの間違いだと思って大笑いするか、ものすごく落ち込むかもしれない。)

 

 

 スベっている。

 

 

 もともとは芸人用語で今や非芸人でも使うこの言葉がぴったりだ。

 

「頼みがあるんだ。」と鼠が言った。

「どんな?」

「人に会ってほしいんだ。」

「……女?」

 少し迷ってから鼠は肯いた。

「何故僕に頼む?」

「他に誰が居る?」鼠はそう言うと6杯目のウィスキーの最初の一口を飲んだ。「スーツとネクタイ持ってるかい?」

「持ってるさ。でも……」

「明日の2時。」と鼠が言った。「ねえ、女って一体何を食って生きてるんだと思う?」

「靴の底。」

「まさか。」と鼠が言った。

 

 

 挙げたらきりがないくらい、スベりまくっている。

「女って一体何を食って生きている?」というお題の大喜利だとしたら、間違いなく0点の答え。

 

 

 あと、『ノルウェイの森』でもそうだったけど、若い人が理由不明の自殺をしている。

 

 やっぱり私にはハルキストと呼ばれる人たちが、どの部分に魅了され称賛するのか理解ができない。

 

 とはいえ、私が手にしている文庫本は2018年の第55刷だし、2023年版はなんと第75刷のようなので、本当に本当に多くの人に読まれているのだということだけはわかる。

 

 

 最後までスベり芸(?)に苛々しながら、だんだん敢えて苛々したくて読んでいるような気になった。

 

 なんなんだろう、これは。

 痛いけど気持ちいいマッサージみたいなもの? 鼻にツンとくる(けど、そこが病みつきになる)わさび的な?

 

 

 個人的見解としては、著者はそこを狙っているのではなく本気でシャレているつもりだとは思うけど、なんか読んじゃうという結論だけで見れば「まんまと」ではある。悔しい。

 

 

#161 質問力  齋藤孝著

 

 

 いわば会話というのは質問と応答、ほぼそれだけで成り立っていると言える。

 

 昨日何してたの? のような軽い問いかけもあれば、死についてどう思うか? などの重いものもある。

 自分事や説教じみた持論を一方的に話す場合もあるにせよ、結局その後には「で、あなたはどう思う?」と続くか、受け手の方から「それでどうなった?」「なぜ?」と質問が出る。

 だからその質問が的外れだったり中身のないものだと、会話全体の居心地が悪くなる。

 

 

 質問、とひと口に言っても大きく分けて2種類ある。

 個人に対するものと、情報に対するもの。

 ここ何年かで、私は後者の質問にイラっとくることが度々あった。

 

 イラっとポイントも2つあって、まず1つ目は質問の投げ方。

 

 日頃から連絡を取り合っている間柄ならわかるけど、せいぜい年に一度くらいしか連絡してこない人から何の前置きもなくLINEでぺろっと質問が届く。

 

 せめて「久しぶり」とか「元気?」とか、何かしらの挨拶があってからのそれじゃないのかと、偏屈じじいの頭は苛立つ。

 関係性がない状態でそこをすっ飛ばして聞きたいことだけを投げるのは、ただ失礼でしかない。

 

 2つ目はその内容。

 

「おすすめの○○(宿・レストラン・店・マッサージ屋etc.)ある?」

 

 これは海外在住者あるあるかもしれないけど、現地の情報を知りたい人がGoogleがわりに人に聞く。

 もちろん情報収集のために人に尋ねることは間違いではない。

 インターネットで得られるものよりもそこにいる人間に聞く方が生(なま)の情報を知ることができると期待するのはわかる。わかるし、私もそれで助けられたことが何度もある。

 

 ただ、ある程度下調べをして、その上で「実際どう?」と聞いてほしいところだ。

 その労力を使わずに唐突に質問を放るのは、つまり私のことを検索エンジンとしか見ていないのだなと屈辱に感じる。

地球の歩き方に書いてあるよ」とは言わないかわりに溜息が出る。

 

 

 だいたい1と2をセットでやられるので、機嫌によってはかなり冷たい対応になる。

 だってこれ、別に「私」に対する問いじゃないよね、誰でもいいから答えだけくれよって話だよね、と拗ねてしまうのだ。

 そこは私の幼稚さでもあるのだけど、冷たくしたらしたで自己嫌悪にもなるから我ながら面倒臭い性質だ。

 そして、不要な反省を強いられた気になってますます腹が立ってくる。

 

 

 基本的には何かを聞かれたら最大限で応えたい心構えでいるし、役に立てれば嬉しい。

 そのくらいの些細な親切心は持っているのだから、どうか、どうか雑にボールを投げつけるのではなく、気持ちのいいキャッチボールをしましょうよ、そう思う。

 

 

 が。

 同じ唐突でも、インド人の質問力というか、彼らの強引さには腹が立たないから不思議だ。

 

 バスで隣になるやいなや、どこから来たのか? ではじまり、何歳だ? 結婚しているのか? なぜしないのか? 宗教は何だ? ブディズムか? と矢継ぎ早に続く。

 関係性も何もあったものじゃない。しかも最初の質問以外は日本人的にはストレートに聞いちゃいけないやつ。

 それらを躊躇なく、ただ知りたいから聞く彼らの姿勢は奔放でいいなあと苦笑交じりに思う。

 

 そんなこと初対面で聞くー?! と驚きながら、日本人で、何歳で、未婚で――ここまでは真面目に答えるが、この場において答えなんてなんでもいいのだと察する――来年するかも(嘘)、私は自分のことしか信じない(冗談)  と返していくと、さらに家族は何人だ? 兄弟はいるか? お姉さんは結婚しているのか? 子どもは何人いるのか? とエンドレス状態。

 もはや質問力を超えた人力は、この本に書いてある技巧なんて吹き飛ばす勢いだ。

 

 確かにやり取りとして洗練されていない、けれどもプリミティブなコミュニケーションというのはこういうことではないかと思う。

 

 ーーごくごく簡単な質問(と、それ以前の問題)について溜まっていたことばかり書いたが、この本に書かれているのはもっと高尚なレベルのクリエイティブな質問についての教えである。

 私にはインド人のような素質は備わっていないので、せいぜい技巧を磨こうと思った。