これまた刊行後ほどなくして読んだはずなのに全く憶えていないという、もはや私の定番コースでの再読本。
ジュンコという不思議な能力を持つ女を軸に広がっていくストーリー展開はさることながら、まず村上龍の描写力に畏敬の念を抱かずにはいられない。
何がすごいって、描写の緻密さ、そして無駄のなさ。
「そうとしか言いようがない」、厳密に選ばれた言葉の並びは芸術的で、文字通りの景色や人物がありありと浮かび上がってくる。たとえストーリーそのものには影響しないような場面でも、だ。
否、そんな場面ですら言葉のチョイス、配置、繋ぎ方、すべてが正確で完璧だからすごいのかも。
『ルビンの壺が割れた』の回で、おじさんに対して「キモい」を連発した以上に、今回は「すごい」をきっと何度もいう。だって、すごいから。
拙い褒め言葉をくどくど書くよりもさっさと引用しろよという話なので、取り急ぎ。
田崎神平の家は、彼の言う私道を百メートルほど行った突き当りにあった。私道というより、あぜ道に近いものだった。右側に、近所の農家の主婦がイトーヨーカドーのバーゲンで買ったピンク色のトレーニング・ウェアで太陽に金歯を光らせながらプレイしているというようなパブリックのテニスコートがあり、左側はキャベツ畑だった。
たまたまレンタルビデオ屋で話しかけてきた田崎老人の家を訪ねた際の、周辺の描写。本当に取るに足らないシーンにもかかわらず圧倒されてしまった。
あぜ道の右側にテニスコートがあって左側に畑がある、というごくありふれた田舎っぽいロケーションなのに、これを読むと、そこでテニスをしているのは近所の農家の主婦でなければならないし主婦が来ているのはピンク色のトレーニング・ウェアでなければならないしそれはイトーヨーカドーのバーゲンで買ったものでなければならない、そんな気になる。一つとして違っていたらこうはならないという奇跡。
ではもう一つ、そこかよ! という場面。
ディレクターという若い男の名刺には人魚のマークが刷り込まれていて、肩書はクリエイティヴ・デザイナー、となっていた。テレビの下請けプロダクションに数年居て、仲間と小さなCGの会社を作ったもののまったく仕事がなくアダルトもので何とか食いつないでいる、そういう顔をしていた。
世の中のあるところには実在しているであろうこういうタイプの若い男の顔が、実際に見たことなんかなくても、はっきりと映像として浮かぶ。
どちらの描写も主人公の想像の中のことなのに、もうそれ以外考えられないということはつまりこれは既に想像ではなくて本当なんだ。理屈でなくそう思う。
こういった文章に出会ったときの震えるような感動、わかる人、いるかなあ。
所謂「あるある」を的確に文章化するのは実は難しくて、狙いが透けて見えると白けるし、洗練されすぎていても現実味が薄まってしまう。
だからそれをパーフェクトに見せられると興奮する。
……本当は、大筋の「サナダ虫」(ジュンコが体内に持つという異生体)のことを掘り下げた感想を書きたかったんだけど、それを黙殺してでもこっちの件を残すことにした。
いつかほかのところで、サナダ虫とか多重人格とかそういう方面のことは書くことがあると思う。多分。