乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#164 腑抜けども、悲しみの愛を見せろ  本谷有希子著

 

『子どものための哲学対話』の感想の最後に書いた、「別の本」がこれ。

 

 この感想をまとめようとしていた時にたまたま観たイチローのインタビュー動画の中に、「自己肯定感の高め方」をテーマとしているものがあった。

 

 インタビュアーの女性が、「どうしたら自分を否定せずに前向きに生きればいいか相談したい」と切り出してはじまるその一部を抜粋してみる。

 

 まず頭からイチローは「基本的に思い通りになんていかない」と答え、「自己肯定感という言葉を目にしたことはない。で、今回目にした。すごく、僕にとっては気持ち悪い。自己肯定、でしょ。気持ち悪くないですか? 自己肯定感っていい言葉なんですか?」

 と、「自己肯定感」という言葉とその意味に強い違和感を示している。

 

 そこから、「自分を肯定するのは僕はものすごい抵抗がある。僕の場合は、自分がやったこと、やろうとしたことに常に疑問符をつける。自己肯定感が強い人って、ストレスフリーに仕事しているとか、そういう感じですか? その人たちは人としての厚みが生まれるんだろうか。瞬間瞬間はいい仕事ができるかもしれないけど、自己肯定感が強い人たちは、おそらく今の風潮では、否定されないじゃない? 明らかにダメなのに否定されない。つまり、自分でも振り返らない、第三者からも厳しいことは言われない、そうなったら、人間は弱い生き物なので、僕は堕落すると思う。人が最悪になる時って、自分が偉いと思った時。最悪というか、魅力的じゃない。それが生まれるんじゃないか、これ強すぎる人は。」と持論を語っている。

 

 野球の知識ほぼゼロの私でも知っているくらいのスーパープレイヤーであるイチローほどの人ならどれだけ自己肯定感全開でも誰も反論できないのに、そもそも自己肯定感なんて気持ち悪いと明言する意外性が面白く、また、そこがイチローイチローたる所以なんだろうな、とも思った。

 

 

「自己肯定感を高めましょう」とあちこちでさも良いこととして掲げられるようになってもう何年かは経ち、もはやこすり倒されている感すらある。

 

 私はその趣旨は理解しているつもりで、つまり、「私なんて」「どうせ」といじけるのではなく、もっと自分を認め、愛し、明るく生きることを推奨しているのだということはわかる。

 

 ただ、やみくもに発せられる「ありのままの私!」という自我を嗅ぎ取ると、結果出してから言えよと引いてしまう。そういう人はなんか信用できない。

 

 だいたい自己肯定感って、「高めましょう」と意図してやるものなのかというところに疑問もあって、意図的に上がったものはもう自己肯定感ではなくてただの妄想なんじゃないかと思っている。

 だから、「自己肯定感を高めましょう」というフレーズが蔓延した時は、ナンバーワンよりオンリーワンの歌が爆発的にヒットしたのと同じうすら寒さを感じた。

 

 

 さて、なぜこんなことを書いているかといえば、本作に出て来る澄伽(女優志望)がまさにイチローと真逆の根拠なき自己肯定感100%の人物だからだ。

 

 自己肯定感「だけ」が高い故に、現実とのギャップを受け容れられず正当化する過程、それが崩れそうになった時の歪んだ対処、全てが滑稽であり、でも笑えないくらいえぐい。

 

 

あたしは最初から辞めるつもりだった。タイミングを逃していただけで、もともとあんな低レベルな役者の中にはいられなかった。没することができるような存在の女優じゃなかった。あたしは浮いたから辞めさせられた。一人だけ才能があったから妬まれた。あたしはあいつらとは違う人間。唯一無二の女優。

 

 

 私自身は『2days 4girls』(村上龍著)の感想にも書いた通り「自己評価が低い方」だ。厳密には、低いふりをしながら実はそこまでではないということを書いたのだけど、それでも決して高いとは言えない。

 

 なので、澄伽の「私は特別な人間だ」という確信には共感どころか、よくもまあそんなふうに思えるものだと感心しながら馬鹿にした目で見ていた。

 

 なのに、ただ「痛い女」だと笑えないのはなぜ?

 

 本谷有希子は、狂気を他人事にはさせてくれない。

 

あたしはちゃんと完璧だったのに。あんたがあんな漫画なんか描いたりしなきゃ、あたしはとっくに完璧な女優になれていたのに。

 

 とにかく自分は才能があり、完璧で、うまくいかない原因は全て自分の外――妹の清深、田舎の人間、劇団の人たち、あるいはタイミング――にあるのだと決めつけることは常識的に考えれば無理な話なのだけど、じゃあ私の中にそういう部分はないのかといえば、やっぱりある。残念ながらあるのだと、認めざるを得ない。

 

 恒常的に自分は完璧だとは思わない(思えない)にしても、自分が特別な何者かでありたいと願い何者かであるはずだと信じたい気持は私の意識下にもきっとある。

 

 自分云々は抜きにしても、何か思い通りにいかない出来事があれば、誰かや何かのせいにしたくなることも大いにある。

 

 時代のせい、環境のせい、親のせい……「私は悪くないもん」と思えるように仕向けなければ、ただ自分が苦しいだけになってしまう、と思い込んでいる。

 

 

 澄伽は確かに極端にいき過ぎている。

 裸の王様どころか、王様ですらないただの裸の人だ。

 そのことを、誰も教えてくれなかったから、ずっと裸のままだった。

 けれど、それでは済まされず、ついに自分が裸であることに気付く時は来る。

 

 

 自分に常に疑問符をつける

 

 

「自分は悪くない」とこじつけるのではなく「自分を疑う」ことが、結局は自分を前進させるのだと、イチローが教えてくれた。

 

 しかし対極にいる澄伽のことも、最後まで蔑みきることはできず、愛しさに似た気持ちすら抱いている。