これは、私だったかもしれない。
子育てをしている女性が出てくる小説はいくつも読んだことがあるけれど、私にとってはやはり対岸の出来事で、その歓びや辛さは真の意味で理解も共感もできないという前提で読むフィクションだった。
けれど、この小説は違う。
「大変だね」とありきたりなひと言で次の瞬間には忘れるような他人事で済まされない、迫りくるものがある。
育児に追い詰められ足掻いている女性の苦しみは、同じ立場の人もそうでない人もこれからそうなるかもしれない人も、目を逸らさずに見るべき現実だという気がする。
ここに書かれていることは、みんなそうなのだと安心する材料にはならないし、もしかしたら出産を躊躇うことになるかもしれないし、男性にとっては脅威だろうとも思う。
「育児未経験者は子どもと母性に幻想を抱いているだけ、経験者は、私は歯を食いしばってがんばったのに、って自己肯定したいだけだよ」
著者は育児経験者でありながら、決して「こんなにがんばっているんだから母親をもっと労わるべきだ」と主張したがっているのではない。もちろんそう訴える思いはあるはずだけど、母親側の自己犠牲意識のようなものもフェアに表現している。
ただ、怒っているのだ。
見て見ぬふりしてんじゃねーよ。そんな怨念を籠めて書ききっているのが伝わる。
日常の中で怒りが蓄積されていく様、キャパシティぎりぎりのところで均衡を保つ危うさ、そして煮詰まりきったそれらが何かの拍子に溢れ出る瞬間に至るまで、ちょっとの欠片も取りこぼすまいとする緻密な描写に唯おののく。
私は今日も一弥と離れられない。地獄と言う特権を与えられ喜べと言われている。
体中が絞られた形でからからに乾ききったぼろ雑巾のようだった。腕は筋肉痛。手首は腱鞘炎。腰も軋んでいる。寝不足と過労で足がふらふらする。体が疲れきっていてご飯が食べられない。ご飯が食べられないせいで母乳の出が悪く、一弥の機嫌が悪くなる。泣き止ませるために抱っこをする。筋肉痛も腱鞘炎も悪化する。ご飯が食べられないどころか何も食べていないのに吐き気がする。永遠にこのスパイラルが続くような気がした。
こういうことが、ごく一般的な結婚をし会社勤めの夫と健康な子供を授かった人の身に起きている。起こり得る。普通に起こる。保育園に預けるという束の間の打開策すら、夫にも世間にも「無責任な母親だ」と白い眼で見られる。
私には子どもがいないし、少子化対策を叫ぶ人たちを鬱陶しく思うこともあるし、子育てしていることで傲慢な態度を取るような女性に嫌悪感を持つし、子連れで通勤電車に乗られれば舌打ちしたくなることもある。
それはまぎれもなく私が思い通りに動かない小さな生き物を365日24時間体制で世話する「現場」を見ていない者だからだ。つまり一日のうち数時間だけでもそこにいる(しかし非協力的で無神経な暴言を吐く)夫以下の認知しかないから言えるのだ。
出産していない女性、あるいは男性側の罪だと言いたいのではない。知りようがないし、こっちにはこっちの都合もある。けれど、そもそも私たちは対立する存在ではないはずだということを、両側の人間がともに思い出さなければ永遠に平行線は近づくことはないだろう。
この小説に出てくる三人の女性(同じ保育園に子どもを預けている)が、状況は違えど揃いも揃ってこうも苦しんでいる要因の一つには、パートナーがいながらもそのパートナーさえ敵になって一人で重すぎる荷を背負っている孤独にある。
そしてもう一つは「完璧主義」の呪縛。
完璧主義の指す“完璧”は、典型的な理想像と言い換えてもいい。
それは他者(社会)から押し付けられる場合もあるし、実は自分で作り出しストイックに課せてしまっていることもけっこうある。そして後者の方がより拘りが強くがんじがらめになりやすい。
○○なのだからこうあるべき。○○がこんなことをするはずがない。○○なのにそんなこともできないのか。
誰もそこまでは求めていないのにそうだと思い込める要素はいくらでもあって、何が本当に期待されていることで何が幻影なのかわからなくなる。わからないけど、応えられていない自分だけははっきりとわかる。
たとえば私は、「日本人」の「40代」の「女性」だ。
私の暮らしている国の人たちはこの3つにしっかりとしたイメージを持っている。
些細な例を挙げると、私は喫煙者であるが職場でそのことを隠しているのは、日本人の若くはない女性が煙草を吸えばどんな目で見られるかが容易く想像できる――それは絶対にポジティブではない――からだ。
もし私が男性なら、誰も何も思わない。
もし私がアメリカ人なら何となく納得されるかもしれない。
もし私が二十代前半なら、良くは思われなくても違う印象を持たれる。
煙草を吸う吸わないなんてここで公開できるくらいの表面的なことに過ぎないけれど、数々の小さなイメージが積み重なってできあがる虚像からのプレッシャーは侮れない。
他者が勝手に作り勝手に押し付けてきていると思っている幻は、自分が「こうならなければいけない」という理想に姿を変え、深く刷り込まれ、そうなれていない自分を見るたびどうしようもない失望感を引き起こす。
しかし私は、その理想像が本来自分の目指しているものとは違うこともまた自覚している。
なのに、だからこそ、そこに寄せていこうとしている自分に違和感しかなく、なぜそんなことをしているのか常に自分に問い続けなければならない。
この負のスパイラルが断ち切れずじわじわと心を蝕んでいくのは育児だろうがそうでなかろうが同じことで、だから、理想の母親であろうと奮闘し、でも現実はそうもいかず、落ち込み、失望し、周囲を恨み、やりきれない思いを一人で抱え、誰も私を助けてくれないと心の中で叫び、でも表面的には何事もない顔で生きている、そんな彼女たちの姿が痛烈に刺さる。
何時であろうが関係なく泣き喚き暴れ母乳を与えれば乳首を噛む。そんなことは赤ちゃんなら当たり前? それをどうにかするのは母親なら当然? そんなこと、言えたもんじゃない。
愛しいはずの我が子が憎らしくなる。都合の良い時だけ赤ん坊をあやし、それで育児に参加しているような顔する夫はもっと憎い。何よりそんな怒りと憎しみを持つ自分自身を責め続けている彼女(たち)を、これ以上誰が責められようか。
家という閉じた小さな空間で闘う彼女は、私だったかもしれない。
また別の登場人物は、自分をコントロールしようとして何か(薬だったり身近な誰かだったり)に依存し、うまくいかなくなると別の何かに依存することを繰り返し、静かに狂っている。
彼女のおぼつかない不安定さもやはり、そうなるかもしれない私だ。否、もしかしたら既にこれは私かもしれない。
この女性についても書きたいことはいろいろある。ありすぎるくらいある。けれど、この人にスポットライトを当てて深堀りし、さらにそれを言語化するのはカロリーが高すぎて今の私にはできそうもない。
ともかく、無駄に高まっている完璧主義とそれによる自己否定からは、解放されなければいつか破綻する。
いっそ狂ってしまえればそこにきっとある快感に手を伸ばしそうになりながら、まだ狂うわけにはいかないと理性を叩き起こしている私自身から目を逸らすことを許してはくれない、こんな小説がかつてあっただろうか。