乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#98 泣虫小僧  林芙美子著

 

 

 先日、元関脇の妻が娘を虐待した(暴行)罪で逮捕された報道を見ていたら、「毒親」という言葉が議題に上がっていた。

 

 体罰は勿論、過干渉や価値観の押し付けなど、とにかく子どもに悪影響を与えることが即ち毒であり、それをする親が毒親といわれるらしい。

 街頭インタビューでは、若者が「親に怒られて外に追い出されたりしたことがある(=ウチも毒親だった!)」、年配の方が「子どもにすごく干渉してしまった(=毒親だったかも……)」などと答えていた。

 

 

 私の母は、今でこそ甘々の仲良し母娘だけれど、子どもの頃は躾にめちゃんこ厳しくて、頭を叩かれるなんて普通にあった。

 デパートで欲しい物を買ってもらえず、野田クリスタル並に床に寝転がって泣き喚いたらそのまま置いて行かれたし、一番のお仕置きは真っ暗な物置小屋に閉じ込められることだった。

 更に、超がつくほど過保護でもあったから、あれこれ口を出すのは日常茶飯事、友達や恋人を良い/悪いとジャッジし付き合いを認めないことも度々あった(それに関しては私も絶対に譲らず自分で判断していたが)。

 

 当時は当然嫌だったし怖い思いもした、けれど、私は虐待を受けたとは一ミリも感じたことはないし、母を恨んだこともないし、ましてや毒親だなんて思うはずもない。

 母がしてきたことが全て愛情に裏付けられていたからだというイイ話ではなくて、そうなんだけど、それよりも、「そのくらいはするよ、そりゃ」と理解ができることの方が大きい。

 母親だって、理不尽に苛立つ日もあれば、子どもが鬱陶しい時もある。そうでなくても、ダメなものはダメとはっきり叩き込みたい信念や、とんでもなく我儘なこいつ(私)をこのまま世に放ったらヤバいという危機感もあったかもしれない。

 

 今、人々が毒親毒親だというのは、私から見れば騒ぎ過ぎでしかない。

 逮捕されるレベルの場合は別として、適度な(と思って与える)お仕置きや干渉で“毒”とか言われたら、じゃあ何、一体どうやって一人の人間を18年保護していけばいいわけ? と、子育てする予定のない身分ながら思う。

 

 

 さてこの小説は、まだ若い未亡人の女性が、新しい恋人との時間を最優先すべく子どもを姉妹の家へ押し付けるお話。

 

 概略だけ見ればこの母親もまた毒親だと、多くの人は思うだろう。

 一回目に読んだ時は、私も、なんて非道い母親なんだ! と思った。

 親戚中をたらい回しにされる少年目線で話を追えば、そりゃあもう不憫で不憫で仕方がない。

 

 しかし、毒親ってなんだろうと一旦考えてから改めて読んでみたら、母親には母親の、預けられた先の人たちにもそれぞれの都合と思惑があって、この子が悪いわけではないけどなんかしょうがないんだよなあ、と大人目線で冷静に眺める読み方になった。

 

 

「あんたみたいなひとは、本当にお父様のお墓の中へでも行ってしまうといいんだよ! 何時でも牡蠣みたいな白目をむいて一寸どうかすれば、奉公人みたいな泣方をしてさア……ええ? どうしてそんななのかねえ、おじさんだって可愛がれないじゃないか……」

 

 にしても、牡蠣みたいな白目って!

 

 このお母さん、実際非道いには非道くて、死んだ父親似の息子の顔からして気に入らない。とくに特徴的な目が亡夫を思い出させるのだろうが、その当たりの強さはちょっと行き過ぎに見える。

 が、人間の目を牡蠣で喩えるなんて著者のセンスが溢れすぎていて、小僧に同情しながらつい笑いたくなってしまった。

 

 

 小僧よ、可哀相だけど強くなれ!

  

 

 

 今、子育てしている最中の人たちは子どもに気を遣い過ぎていて、大事に大事にされている子どもに羨ましさがないわけでもないが、親が子に媚びる関係性に感じる気持ちの悪さの方が大きい。

 親が子どもに干渉し、自分の価値観で物を言い、子どもにも同じものを求めるのは、当たり前といえば当たり前だし、子どもだって本当に嫌なら黙っちゃいない。いい意味でもっと雑に扱ってもいいような気がする。

 

 

 果たして泣虫小僧は将来、母とは真逆の母性豊かな女性に惹かれるのだろうか、それとも、さんざん冷たくされても結局「お母さんといたいよぉ」と願い続けた心そのままに、母に似た人を愛するのだろうか。

 

 切ない中にも、まだ未来に光は射している、そんな小説だった。