目には目を 歯には歯を
ハンムラビ法典はそう説く。
右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ
キリストは言った。
さてどっちをとるか。
復讐は正義か悪か
真逆の視点から詰め寄ってくる小説を二作読んだ。
復讐法は、犯罪者から受けた被害内容と同じことを合法的に刑罰として執行できるものだった。
裁判により、この方の適用が認められた場合、被害者、またはそれに準ずる者は、旧来の法に基づく判決か、あるいは復讐法に則り刑を執行するかを選択できる。
ただし、復讐法を選んだ場合、選択した者が自らの手で刑を執行しなければならない。
大切な人が殺された時、あなたは『復讐法』を選びますか?
いやいやどんな事情があろうともアウトでしょ、というのが『殺人症候群』であるのに対して、『ジャッジメント』では人々の判断基準となる法そのものを変えてしまった設定で “あり”とした上で、それなら是かと問うている。
さて私ならどうするか思いあぐねていたところに、新幹線無差別殺傷事件を起こした被告人が無期懲役を言い渡され万歳三唱したという驚愕のニュースが飛び込んできた。
その瞬間、現実にも『復讐法』が必要な時があると、心底思った。
『ジャッジメント』で報復者(おもに被害者の遺族)が復讐を決意するまでの葛藤や恐怖に苛まれる様子が微細に書かれているように、実際そう簡単なことではないのは容易に想像できる。
合法だからといって人間を殺めるわけだから、それは当然だろう。
肉体的にも精神的にも計り知れない負担の伴う行為であり、その上、そこですべてが終わるのではなく報復者としての人生が続くのだから。
しかし、それらを考慮してもなお、件の被告のような、反省の色も見せず今後同じことを繰り返す可能性すら臭わせている者に自分の家族を(しかも無差別に)殺されてしまったとしたら、きっと私は復讐法を選ぶ。たとえそんなことをしても帳消しにはならず気が晴れるわけでもなく加害者と同種の十字架を背負うことになるとしても。
というのは完全に感情論。
でも、感情以外に何をもって決断するというのか。
被告の生い立ち? おかれた環境? 年齢?
そんなことを加味するのは、当事者以外、つまり無関係な立場だからできること。
では逆に、自分が加害者の家族だったら、と考えてみる。
小説の中では「どんな息子でも可愛い我が子」として庇う母親が出てくるが、そんなの知ったことかと思ってしまう。どうしたら非道な犯罪を起こした子どもを愛し続けることができるのか、(私が子を持たないからだとしても)理解に苦しむ。
加害者の家族もまた被害者であるケースは多く、被害者側と違わず苦難があることに同情はするけれど、復讐法が適用されるほどの罪(何でもかんでも復讐法が使えるわけではない)を犯した家族を弁護する気持ちは本当にわからない。
前回、『幸福な生活』(百田尚樹著)の感想で「母が過去に殺人を犯し今なお逃亡中の身だったとしたら全力で逃亡に協力する」と書いたばかりだが、それは無意識に「きっと何らかの動機や事情があったに違いない」ことを前提としていて、手当たり次第に、たまたまそこにいた人を殺したとなれば、話は別だ。多分。
ここまで書いて、はたと思い当たることがある。
実はつい先日、なぜか今更ドラマ『半沢直樹』を全話(初めて)ぶっ通しで観た。
もしや、あの台詞が……
私を復讐派に誘導した?!
わけではないだろうけど、いずれにせよ、復讐を是とするか否かは個人の倫理観によって見解が分かれるところで、どちらが正解ということはない。
できればやり返すことなんてない人生がいい。
そんな願いを抱きつつ、2019年が終わろうとしている。