2021年の一発目は『スカートの下の劇場』(上野千鶴子著)の感想で新年早々パンツの話だった。
奇しくも2022年も上野千鶴子で幕を開けるとは、なんの因果か。
それはさておき、まず本書のサブタイトルに触れておくと、私は3.11を知らない。
もちろん出来事としては知っているけれど、「経験」という意味で、知らない。
無職で、外国のゲストハウスでだらだらと過ごしている時に、それは起きた。
まだスマホも持っていなくて、ニュースをまめに見ることもしていなかったから、共有のダイニングルームでコーヒーを飲みながらパソコンを開いていてもなお、そのことを知らずにいた。
そこに居合わせたどこかの国の人が、「you、日本人でしょ? 大変なことになってるよ! ニュース見て!」と声をかけてくれて、ようやく目にした悲惨な映像の数々。
慌てて家族の携帯にメールを送って安否確認をしたら拍子抜けするくらい「大丈夫」な返信だったから、そんなに大事(おおごと)ではないのかと思ってしまった。
その後、大事ではないなんてことはないと様々な情報を通して理解していくわけだけれど、やはり生(なま)で見聞きしていないことへの正直な実感としては、自分とはあまり関係のないこと、という文字通り対岸の火事、いや対岸の地震。こんな冷酷非情でエゴイスティックな感覚を告白できるのはここ(ブログ)くらいだ。
いや、関係なくはない。
私は3.11の2年ほど前に、福島の一番被害の大きかった地域にしばらく滞在していた。
ある大家族と寝食をともにし、その家の家業である陶芸工房を手伝い、子供たちと犬の散歩をしたり夏祭りに行ったり、これぞ田舎の夏休み! という日々を過ごした思い出の土地が、とんでもないことになってしまったのだ。
それでも「経験者」ではないことに変わりはなく、被害や影響を受けた人のことを慮れば何かを軽々しく口に出せないことが肌で感じられたから、私は口をつぐみ続け、その話題はなるべく避けてきた。そしてそこには引け目というか、罪悪感に似た後ろめたさが必ずくっついてきた。あの「絆」の輪に入れない非国民と思われるのが怖かった。
コロナにもいえるけど、温度感は本当に人によって違うし、そこの価値観や受け止め方によって「この人はそういう人」と人格全体を判断するのもされるのも、できることならしたくない(でも、してしまう時がある)。
湯山 上野さん、私、人生で初めて、政治の季節がやってきたんですよ。
上野 Oh,my god(笑)! それは「3・11」がきっかけになったの?
湯山 東北の大震災と福島の原発事故がそれほどに大きかった。あれから「国ってなんだろう?」と考え始めた人、多いと思うんですよ。
これこそが私に欠けている意識だと思える対話ではじまる内容について、だから私は同じ観点からは書けないし、考えられない。
それでなくても才女と令嬢の対談だ。
年齢も違えばスペックも環境も何もかも私とは程遠い二人の女性が語る歓びも苦しみも、自分に重なるようなことはない。
ただ、一つ面白い発見があった。
私がずっと言語化できずにいた過去の自分を、湯山氏が的確に言葉にしていた。
つまり「カネ」と「女」という記号を身につけることはね、より自由になって、私に文句を言うウザイ男を立たせないための武器として、すごく機能したんですよ。
(旧男類を黙らせる、技術としての「女装」パワー)
あ、あの頃の私がしていたのは「女装」だったんだ。
通常「女装」といえば女ではない者、つまり男性がする行為を指すのだが、女がより女の恰好をすることもまた「女装」だという目から鱗の発想で、けれどそうとしかいいようのない振る舞いを、かつても私もしていた。
私の場合は男を黙らせようと思っていたわけではないから、湯山氏の意図とは少し違うけれど、ブランド品(カネ)とフェミニンなOLファッション(女)というわかりやすいものを身に付けているだけで、男はそういう目で見てきたし、なんか簡単なんだなとは思っていた。
一応書き加えると、手玉に取るとかいいようにコントロールするの意での「簡単」ではない。
彼らは私の鬱屈やひねくれた思想や面倒臭さには目を向けず、たまにそういう片鱗が見えたとしても目を逸らし、都合の良いように記号を付けていた。
それは彼らにとっての都合であるのと同時に、私にとっても都合が良かった。
あれは女装だった、と大昔のことがクリアになって、妙に晴れ晴れとした気持ちになった。
今や女装をすることなんて全くなくなって、むしろ男も女もない、どんどん中性化している私。
あの女装時代もそれはそれで楽しかったなあと懐かしく思う。