乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#92 続・堕落論/戦争と一人の女  坂口安吾著

 

 

 

 去年の今頃、新型のウィルスが発生して、でも自分には関係のないところの騒動だと思っていたのも束の間、あれよあれよと全世界に広まっていった。

 恒例の3月から4月のインド行は当然キャンセル。それどころか普段の生活にまで制限がかかり、仕事にもかなりの影響が出た。

 

 あれから一年。

 あとどのくらいで、元には戻らないにせよ現状から抜け出すことができるのか、未だ誰にもわかっていない。

 

 

 これまでは、いくら辛いったって、こんなに長期戦になることはなかった。

 ぎゅっと凝縮した不快な時間、朝から憂鬱な一日、ツイてない一週間、その程度のことはたびたびあるし、なんとなくやり過ごすことはできる。大失恋をした時――私の人生で最もキツかった時期――だって、もうこのままでは死んじゃうかもと思った4か月後には、堕ちた生活を自力で立て直していた。

 そうできるのは、苦しみの種類が「個人的」なことだからかもしれない。

 

 今回のしんどさは、一時的だと甘く見ていると痛い目に遭う。

 そもそもこの感覚が「苦しみ」や「しんどさ」という名前なのかもわからない。

 とにかく自分の手の届かない、目にも見えないものによる締め付けが「長く」続いていること、「先が見えない」ことの二点が、人間の精神にこれほど負荷をかけるものなのかと痛感している。

 

 そんな未曾有の経験をしている最中に戦時中の話を読むと、何か今の世と通じるものが見えてくる。

 元凶――戦争とウィルス――の性質こそは違うけれど、人間が、あまりに大きな出来事に対峙し、身を委ねなければならなくなった時の心理や行動パターンはさほど変わらない。そう重ねながら、この二作を読んだ。

 

 

『続・堕落論』では、戦前に生まれ戦争を経て戦後を生きた著者が、政治や古い制度、それらによって植え付けられた価値観に対する批判を痛烈に書いている。

 

日本の精神そのものが耐乏の精神であり、変化を欲せず、進歩を欲せず、憧憬讃美が過去へむけられ、たまさか現れいでる進歩的精神はこの耐乏的反動精神の一撃を受けて常に過去へ引き戻されてしまうのである。

 

 だから日本は駄目なんだ。だから無残極まる大敗北となるのだ。ハナから国民は戦争をやめたっくて仕方がなかったのに! と、国という巨大な存在に噛み付く。

 

 私は男臭い政治論というものが苦手、というか政治のことがよくわかっていないので、熱弁するおじさんの声なぞは聞くだけで苦行に感じる。

 けれど安吾は、小難しいことをくどくど述べて悦に入ったりせず、唯、一人の国民として純朴な考えを飾りなく主張している。この人、女だけじゃなく男にもモテただろうなあ、そう思わずにいられない。

 

人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。

 

 これなんて、Twitterで発信したらバズりそう。

 誰だってとどのつまりはここなんだよ、そうだろ? というところを直球で攻めてくるからぐっとくる。

 内容に奇抜さは一切なく、ごく基本的なこと。なのに、あれ? その当たり前が私、できていなくない? 誰か(何か)に阻まれている? そう気づかせてくるインフルエンサー安吾

 

 今私たちも、「こんなご時世」を各国の統治下に生きざるを得なくなっている。

 あれもこれも禁止され、こっちは積極的にやれと促され、やったらやったでやっぱり駄目だと撤回され、心身ともに振り回されっぱなしだ。しかも、従っても従わなくても、好転している手応えがない。

 その結果、もう自分がしたいようにするしかない、という答えを多くの人は出しはじめているのではないだろうか。

 

 

 さて『戦争と一人の女』の方は、戦時下を刹那に生きる男の目線で書かれた短編小説。

“戦争中限定“で始めた、およそ主婦には向かないふしだらな女との暮らしが、シリアスなのかコミカルなのかわからない泣き笑いのような表情で綴られている。

 フィクションでありながら、主人公の惑い方や女の虚無感がやはり今とダブってしまう。

 

 

女は遊女屋にゐたことがあるので、肉体には正規な愛情のよろこび、がなかつた。だから男にとつてはこの女との同棲は第一そこに不満足、があるのだが、貞操観念がないといふのも見方によれば新鮮なもので、家庭的な暗さがないのが野村には好もしく思はれたのだ。(中略)戦争中でなければ一緒になる気持はなかつたのだ。どうせ全てが破戒される。生き残つても、奴隷にでもなるのだらうと考へてゐたので、家庭を建設するといふやうな気持はなかつた。

 

 家庭という永続的なものを夢見られない。長いスパンで未来予想図を書けない。本来ならもっといい女を選ぶのに、選べるのに、どうせこの状況では……という男のやけっぱちな心持ちが、今の自分にもある(でも蓋をしている)破滅願望のように見えて、共感と同情の混じった複雑な気持ちになる。

 

 とはいえ、二人の間には愛着に似た思いも確かに漂っている。

 焼夷弾で焼けてしまいそうな家を守りたがる女のために、いっちょ俺が! と野村が男らしく火に立ち向かう場面は、ちょっとー、なんだかんだ仲良くやってるんじゃないのー、と茶々を入れたくなるくらいいい感じ。

 

「私、この家を焼きたくないのよ。このあなたのお家、私の家なのよ。この家を焼かないでちやうだい。私、焼けるまで、逃げないわ」

(中略)

「よろしい。君のために、がんばるぜ、まったく、君のために、さ」

「ええ。でも、無理をしないで、気をつけて」

「ちよつと、矛盾してゐるぜ」

 

 この瞬間は、肉体ではなく女その人を可愛いと思う野村。

 

 なのに、その愛情の欠片はすぐに打ち消される。

 

けれども彼はそれほど女に執着してゐるのでもない。

 

 ちよつと、矛盾してゐるのはあなたの方!

 

然し、事実は大いに執着してゐるのではないかと疑るときがあつた。なぜなら、戦争により全てが破壊されるといふハッキリした限界があるので、愛着にもその限定が内々に働き、そして落付いてゐられるのではないか、と思はれたからである。

 

 本人の中でさえも一体どっちなんだよ、と揺らいでいるのだけど、矛盾した思考の行ったり来たりは、今私に覆いかぶさっている疲憊とそっくりだと、ふと思った。

 

 

 遠近感の狂い

 

 

 ウィルスの発生をはじめ、各国の感染者数、どこかは悪化しどこかは健闘している様子、専門家が発表するいろいろな説、専門家でもないのに言いたがる誰かの主張、どれも、自分を含め身近な人に感染者がいない場合、同じ世界の出来事とは思えないくらい遠くに感じる。

 

 しかし遠くを眺めていたつもりが、無傷の自分にも火の粉は降りかかってきて、昨日はできていたことが今日からできなくなり、目の前のことを見直しさせられる。

 

 それで近くに集中している間も、絶えず遠くの情報が入り込んでくるから、またそちらに心を持って行かれて、この先どうなるんだと気弱になる。

 

 できることもやるべきことも近くにしかない。

 一方で、近くを揺さぶる大元は遠くで進行し続けている。

 

  近く遠く遠く近く――不自然に視線を動かせば焦点がずれるのと同じで、精神だって、不透明な未来と目前1㎝の今を過剰に往来しているのだから、へとへとになるわけだ。

 照準が一貫していないから、思考はあちこちへ飛ぶし矛盾だらけになるのも当然といえば当然。

 

 

「あなた、空襲の火を消した夜のこと、覚えてゐる?」

「うん」

「私、ほんとは、いつしよに焼かれて死にたいと思つてゐたのよ。でも、無我夢中で火を消しちやつたのよ。まゝならないものね。死にたくない人が何万人も死んでゐるのに。私、生きてゐて、何の希望もないわ。眠る時には、目が覚めないでくれゝばいゝのに、と思ふのよ」

 

 もうどこを見ていいのかわからなくなって、どこを見てもぼんやりとしてくる。

 ならばいっそ目を閉じて、希望もない代わりに絶望もなくしてしまいたくなる。

 

 

野村には明日の空想はなかつた。戦後の設計などは何もない。その日、その日があるだけだ。

 

 けれど、そうもしていられなくて薄っすら目を開ければそこにあるのはやっぱり今日という日の今という瞬間。

 

 眼精疲労には蒸しタオルをしたり目薬を点したりツボを押してみたりするのと同じで、心の焦点を整えるにも何かしらの手助けが必要だと、意識的に考えるようになった。

 

 私にとっては、猫を撫でるとか、ボケーっと朝焼けを眺めるとか、お香とスパイスの香りにしばし立ち止まるとか、そんな些細な五感の「快」が、さしあたりの栄養剤になっている・・・かな。