乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#107 高瀬舟  森鴎外著

 

 

 友人が「同時に嫌な話だなとも思った。」と感想を書いていて、どれどれと思い読んでみた。

 

 主人公の喜助は、重い罪を犯し島流し(遠島)にされる。

 彼は、これから始まる囚われの生活を思って打ちひしがれるわけでもなく、むしろ今まで送ってきた苦しい生活より全然マシ、と考えている。

 自由がないことなんて、衣食住がなく困ることに比べたら大したことではないというのは、まあ一理ある。

 

 喜助は、極悪非道の殺人犯として書かれていない。

 病気を苦にした弟の自殺幇助というか、懇願されてとどめをさし、死なせた。そんな彼に対して、友人のいうところの「喜助を聖なる者のように見ることに対する強烈な気持ち悪さ」は、私には湧かなかった。

 

 聖人とは思わないけれど、ぼんやりと『罪と罰』のラスコー(リニコフ)なんかより全然喜助は悪くない! と思った。

 

 

 罪を犯したくて犯したわけじゃないもんね。

 

 まんまとそう信じたところが、私の読みの甘さかもしれない。

 

 それは、もう一人の登場人物である、島まで舟で護送する役人みたいな人(庄兵衛)が喜助の話をこれっぽっちの疑いもなく信じ込み、感動すらしているのと同じだ。

 

 

 では疑いの目をもって読み直してみたら、どうだろう。

 そう思い、もう一度読んでみた。

 

 

庄兵衛はまともには見てゐぬが、始終喜助の顔から目を離さずにゐる。そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返してゐる。それは喜助の顔が縦から見ても、横から見ても、いかにも楽しさうで、若し役人に對する氣兼がなかつたなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌ひ出すとかしさうに思はれたからである。

 

 おいおい、ちょっと待て。と、ここで思った。

 島流しに遭うにはご機嫌すぎるじゃないか。罪人らしい神妙な、苦渋に満ちた表情でないどころか、口笛とか鼻歌なんて、健全な人間だってそこまで気分がいいことは、そうそうない。

 

 

 たまらず庄兵衛は喜助に何を思っているのかと問う。

 すると喜助は、これまで自分のしてきた貧しい暮らしを語り、それが牢に入ったら食べる物に困らないどころか出る時には今まで手にしたことのないような現金をもらえ、ありがたいのだと答える。

 

 

喜助は世間で爲事を見附けるのに苦んだ。それを見附けさへすれば、骨を惜まずに働いて、やうやう口を糊することの出来るだけで満足した。そこで牢に入つてからは、今まで得難かつた食が、殆ど天から授けられるやうに、働かずに得られるのに驚いて、生れてから知らぬ満足をえたのである。

 

 私はこれを、清貧な人の知足だと、結局聖人のように見ていたのだが、穿った眼で見ればなんのことはない、足るを知るのではなく楽して得することを知っただけのことともいえる。

 

 

 それからもう一つ疑いを持つとすれば、弟が死ぬ(殺す)場面での兄弟のやり取りの長さがある。

 

 100%喜助の話を信じるのならば、病気で働けず兄に迷惑をかけている弟が自殺を図り、喉を切ったが死にきれず、「刃を抜いてくれたら死ねるから、手を借してくれ」と頼むから、泣く泣くそれを抜いたのだ。ということなのだけど、それにしても弟の台詞が喉に刃が刺さっているとは思えないくらい饒舌なのだ。

 

 

 本当にこんなに喋ったの?

 

 

 本当ならば安楽死させたということで、殺人とは違う気色を含むし、作り話だとしたら喜助は相当なワルだ。

 

 

 ここまで違った解釈ができてしまうという驚き。しかも真相はわからない。よくできたミステリだったのだと、二度読み終わった今、思う。

 

 

 一方、庄兵衛は最後まで疑いを持たず、喜助のしたことを人殺しというのかと腑に落ちずにいる。

 

庄兵衛の心の中には、いろいろに考へて見た末に、自分より上のものの判断に任す外ないと云ふ念、オオトリテエに従ふ外ないと云ふ念が生じた。

 

 オオトリテエという聞き慣れない言葉がまた、庄兵衛の心にある引っ掛かりそのもののように違和感を残す。

 オオトリテエ=authority=権威に丸投げして終わるといういかにもお役人らしい落とし方を、森鴎外は皮肉として書いたのか、はたまた我々庶民とは遠いところ、上(うえ)→かみ=神のみぞ知るという謎めかしとして書いたのか。というのは、さすがに深読みしすぎだろうか。