乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#63 マチネの終わりに  平野啓一郎著

 

 昨年10月に日本の書店で大量に平積みされているのを見て、平野啓一郎ってそんな扱いの作家だったかな(個人的には好きだけど)と思ったら11月に映画が公開される(ためのタイアップ)ということで納得。

 刊行時から気にはなっていたもののその時は恋愛小説の気分ではなくて買わなかったけれど、それから4カ月後、いつもの古書店に安価で入っていたので結局読むことにした。

 

 これ、映画化するのわかるわ~

 

 舞台は東京―パリ―NY。主人公はクラッシックギタリスト(蒔野聡史)とジャーナリスト(小峰洋子)で洗練されているというかとにかくくたびれたサラリーマンではない。にもかかわらずベースがこってり演歌の世界。日本人が好きなやつ全部入れてみました、という感じ。

 

 

 二人の男女が出会い、急速に惹かれ合い、互いの想いはひとつなのに……(いろいろ弊害)

  

 冒頭からこの人とこの人の恋愛物語だとわかっていながらそう簡単にはくっつかない。耐えて耐えて待って待って挫けて立ち直ってまた揺れて。

 こういう忍耐とか苦難を乗り越えた先にある美学を好む国民性ってなんなんだろう。

 ラテン系の人たちからしたら意味わからん! ってなりそうなんだけど、私も湿気の国の一国民として、結構好きではある。

 そこへきて、青森ではなくパリとかNYのオシャレな映像が加わったらさぞかし素敵ラブストーリーに仕上がっているんだろうなと、映画は観ていなくても想像できる。

 

  

 ただ、私はこの二人を全面的に応援する気持ちにはなれなかった。

 なぜ素直に蒔野と洋子のハッピーエンドを望んでいないのだろうかとふと考えてみれば、それはひとえに洋子の人間味の欠如だと気付いた。

 美貌や知性への嫉妬ではない。

 きりっとしすぎ、思いやりに溢れすぎ、大人すぎ、あらゆる面で優等生すぎる彼女に感情移入ができないし羨望すら湧かないのだ。

 

 決定的にそう感じたのは、蒔野へ想いを寄せるあまり過ちを犯した早苗が罪を打ち明けた場面。

 

彼女の胸の裡では、この三年間、努めて忘れようとし、ようやく薄らぎつつあった蒔野からのあの別れの言葉が谺(こだま)していた。

(中略)

「あなたが、あのメールを書いたのね?」

(中略)

洋子は、早苗が否定しないのを見て、目を閉じ、現実の世界から落剝してしまいそうな繊細な震えを、眉間の皺からその美しい額へと走らせた。そして、小さく首を横に振った。

 

 

 あれほど想いを募らせていた蒔野との関係を引き裂いた張本人を目の前にして、内心は動揺しながらも取り乱す素振りを見せない(どころかこの期に及んで美しさを見せる)洋子が、私には完璧な理性がインプットされたサイボーグに見えた。

 大声で罵倒し頬を張りコップの水をぶちまけてもバチが当たらないくらいのことをした早苗に対し、小さく首を振るだけって!

 

「あなたの幸せを大事にしなさい。」

洋子は最後に、ふしぎなほどに皮肉な響きのしない、親身とさえ感じられるような穏やかな口調でそう言うと、早苗を残して店を後にした。

 

「おぼえてろよ!」と漫画みたいな捨て台詞よりも実はこういう態度こそが相手には応えることを意識はしていないだろうけど、非の打ちどころがない神対応」に張りつく厭らしさが鼻につく。

 

 対する早苗は、多分読者のほとんどに嫌われるであろう邪魔な存在。

 誰もが彼女の卑劣な行為を軽蔑するだろうし、実際どう考えてもするべきではないことをした。が、同時にそれが人間だと思う。

 

 

 自分には蒔野や洋子にあるような「華」がない。

 そんなコンプレックスを持つ早苗は、ならば裏方に徹し、主人公(蒔野)にとっての“名脇役”になろうと地道にその役割を担ってきた。

 

 早苗の自信のなさやそれ故に内包する嫉妬心は痛いほど理解できる。それに、彼女とて単なる馬鹿ではない。むしろ細やかな神経を持ち合わせた聡明な女性だ。

 過ちの重さも、抱えていかなければならない後悔の念も、いつかは明るみに出てしまうかもしれない恐れも、そんなことは重々承知で、それでもそうせずにはいられなかった。

 

 罪の告白の前に早苗は、自分と洋子を、聖書の中のマリアとマルタに喩えているのが面白い。

 即ち、イエスが家に来た時、彼をもてなそうと一生懸命働く姉・マルタは自分であり、イエスの側に座って話を聞いているだけの妹・マリアが洋子であると。

 

「わたし、マリアは絶対、わかってやってるんだと思うんです。姉が忙しく準備してるのは百も承知で、その上で、ただずっと、イエスの側にいたんだと思うんです。マリアは心の中では、姉を馬鹿にしてるんですよ! イエスって、どうしてそういう女の狡賢さがわからないのかなって。」

 

「えー、……でも、マルタだって、本当はただ、イエスの側にじっとしていたいでしょう? けど、そしたら、誰もイエスをもてなす人がいなくなってしまうじゃないですか。だから我慢して、一生懸命、動き回ってるんじゃないんですか? マルタは別に、妹に手伝ってほしかったんじゃないんだと思うんです。ただ、イエスにその気持ちを知ってほしかったんじゃないですか?」

 

 

 これはさすがに飛躍しすぎだし、マリア(洋子)はマルタ(早苗)を「馬鹿にしてる」というのは被害妄想でしかない(何しろサイボーグ的優等生は、そんなことはしない)。でも、こんな突飛な発想を持つくらいのことってあると思う。人間だもの。

 

 一生懸命立ち働くことでしかイエスの気を引けないマルタに、マリアの方が正しいと言い放ったイエスは確かに残酷!Σ( ̄ロ ̄lll) 

 

 そんなふうに、欲望に正直に生き、他人を傷つけ、自らの汚い心に苦しむ罪びとに流れる血のあたたかさを感じながら、それでも主人公二人の行く末をそわそわ気にして読み切った。

 

 

 <余談>

 読後に映画のキャストを調べたら、主人公二人が『早稲女、女、男』(柚木麻子著)の感想で名を挙げた俳優さんでおののいた。そしてどちらも蒔野と洋子のイメージに合わない。私なら、蒔野は内野聖陽さん、洋子は宮沢りえさんをキャスティングする(小説が映画化されたときの楽しい想像)。