乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#131 改良  遠野遥著

 

 いつか読まねばと思い続けていた著者のデビュー作。

 第163回芥川賞を受賞した時の映像を見て、何このイケメン! と椅子から落ちそうになるくらい私の好みの容姿だったことでずっと気になっていたのだ。

 

 父上がBUCK-TICKのあっちゃん(櫻井敦司さん。私の中で「あっちゃん」といえば実業家風のお笑いタレントではなく、BUCK-TICKのあっちゃん)だというからあの端正なお顔立ちも大いに頷ける(80年代後半から90年代にかけてのバンドブーム、ビジュアル系ではない別のバンドを追っかけていた私でも、『JUST ONE MORE KISS』を歌うあっちゃんの美しさには見とれたものだ)。

 

 ご本人はそういう見方をされることを鬱陶しく思うのか、平成生まれはそんなこと気にもしないのか知る由もないけれど、伏し目がちな表情も、裏のありそうな質問の意図を慎重に汲み取り言葉を選んで回答する声も、繊細な指先も、とにかく良い。

「キュン」とはこういうことかと永久に忘れそうになっていたときめきという名の扉が完全に開放され、頭の中が♡♡♡で埋め尽くされる。

 

 

 小説家に対してこんな浮ついたとっかかりで興味を持つのはナンセンス?

 でも、しょうがない。

 見た目で好きと思えるもの(人)はそんなにたくさん在るわけではなく、稀に出会えば心奪われる。

 

 

 さて図らずもこの小説のテーマもルッキズム

 

 主人公は、ひたすら美しくなりたいと願い、そうでないもの――彼自身を含めて――を実に冷淡に酷評する。

 

 

つくねの顔立ちは、整っているとは言えない。上の前歯がいくらなんでも前に出すぎているし、目は小さい。鼻は下向きの矢印のようなかたちをしていて気持ち悪いし、輪郭もなんだかいびつだった。(中略)でも、つくねは美しくないが、そのおかげで私はどこか安心することができた。美しい人間と接するとき、私はしばしば強い劣等感を覚えた。しかしつくねに対してはそのような感情を抱かなくて済んだから、一緒にいて楽だった。

 

 アルバイト仲間の女友達・つくねをこんなふうに眺め、時に「可哀想だ」と憐れむのはひどいことだろうか。

 

 表面的には「人は見た目ではない」ということになっている(している)し、ルッキズムは差別として批判されている。

 しかしそれはあくまで“表面的”であって、多くの人は、心の中ではそうやって他人のことを評価しているのではないのか。私はする。

 

 主人公が「人間の価値は、当然美しさだけでは決まらない」と自覚しているように、私もそんなことは重々承知、だけれど、見た目で何かを判断したり一方的に好/悪印象を抱いたりするのもまた自然であり、それで価値が決まることが多々あるのも事実。

 

 それは善悪あるいは正誤に二分できる問題ではない。                                             

 

 

――とか、それっぽいこと書いているけど、やっぱり著者の顔がちらついて感想がまとまらない。

 

 

 そんな折、ラランドのニシダがなぜ読書が好きかという理由として「娯楽の中でも本はパフォーマンスが紐づけられていないから」と語っているのを見た。

 音楽は、好きな曲をライブで観たらそのミュージシャンが悦に入って歌っていて、急に冷めてしまったことがある。

 ドラマも、全体で見たらいい話でも、「この人が好きじゃない」とかが入ってきてしまう。

 つまり、パフォーマンスの好き嫌いや人の好き嫌いで作品が左右される。

 でも本を読んでいる時は本と自分だけで人が介在しないから、人に対する気持ちが入ってこない。だからいい。

 

 要約するとそういうことで、なるほどと納得するところが大きかった。

 が、『改良』に関してはめちゃめちゃ人が介在してきてるよ! と罪のないニシダを責めたくなった。

 

 もう著者近影とかない方がいいんじゃないか、どこの誰が書いたのかすら知らない方がいいんじゃないか、そんなことも思った。

 

 昔なら画像の粗い限られたアングルの写真でしか知ることのなかった作家を、今はテレビでも動画でもSNSでも目にすることができる。

 そして時に目にした情報が本と私の間にぐいぐい入ってくる。

 

 本当は、この上ない苦痛を味わいながら誰かが大きなへらを使って私の脳みそを掻き混ぜているような、そういう感覚を覚えたりどこまでも白いニットの汚れに拘ったりする主人公の解離性とか、誰一人として本名で登場しない非現実性とか、触れたいところは色々あるのに、介在した遠野遥という人が、私の平常心を乱し、それができないでいる。