「ペネトレ」という名のおかしな猫と「ぼく」との対話形式で語られているので、まさに「子どものための」という感じになっているものの、実際は、子どもの頭を忘れてしまった大人のための哲学書というところか。
大人でも「なぜ?」と思うようなことや、思うまでもなく「そういうもの」としてしまっていることを、改めてぼくが問いペネトレが答えている。
例えば、学校には行かなくてはいけないか? 友だちは必要か? など、子どもの頃(まあまあ大人になってからも)私も考えたことあるようなことばかり。
とはいえ、ペネトレは常に明快な答えを出すのではなく、結局うーん……と疑問を残すままになっていることが多い。
これが正解! という答えに辿り着くことがゴールではなくて、色んな考え方があって、ペネトレは数あるうちの一つの道しるべみたいな役割。
そして自分なりの考えを巡らせるその過程こそが「哲学」だ。
私は思春期と呼ばれる年の頃、まだ哲学という言葉こそ知らなかったけれど、思考をこねくり回すことをし始めたように思う。
ちょうど、『乳と卵』『夏物語』(川上未映子著)の緑子のよう(母親が突然豊胸手術をするとか言い出すことはなかったけど)に。
意識的にではなくて、それまで無邪気に「友達」としか認識していなかった人たちの裏にある厭らしい部分が急に見えてきて、同時にそれに対する自分の感情を観察するようになった。
家庭内でも、父母姉それぞれとぶつかることが多くて、そういう時は相手の言葉や態度をいちいち分析して、より腹を立てていた。
腹を立てる自分を鎮めるような哲学は、なかった。
成人してからも続いているが、自分のこの感情は何だ、これは一体どこからきているのか、何にムカつくのか、なぜ悲しいのか、人生に意味はないとしてじゃあなんで生きていなければいけないのか、こんなことをしている自分はゴミ以下ではないか、必要のない存在ではないか……と、わりとというよりかなりネガティブ方向で思索する癖がついていった。
それで見えてくることもままあったけど、やり過ぎて自家中毒というか、自分で自分を疲れさせることの方が多かった。
中年になって良かったと思うことの一つとして、そこに費やすエネルギー自体が大幅に減った(つまりは面倒になった)ことと、大概のことを「まあしゃあないな」「どうでもいいか」といい加減に済ませられるようになったことがある。
ただ、長年の癖というのは抜けないもの(別に抜く気もない)ので、嫌なことがあればその原因は考える。
考えているうちに、こうこうこうだから嫌なのだとわかってきて、そこからさらに追及していくと、単に「嫌」という感覚もいろいろ種類があって、これは「苛立ち」これは「違和感」これは「落胆」これは「嫉妬」これは「価値観の相違」と細かいカテゴリー別に振り分けられる。
ペネトレ:よく気がついたね! ある感情がわきおこってきた原因をよく理解すると、その感情がうすれたり、消えたりすることがあるんだよ。つまり、頭でよくよくわかっていないから、いつまでも心でもやもや感じちゃうんだよ。
ペネトレもこう言っている。
私の場合は、正体が見えてくれば嫌悪感がすっと消えるなんてマジックのようなことは起こらないけれど、漠然とした「なんとなく嫌」よりはだいぶ落ち着くことができる。
一方で、もっともっと何も考えずに生きたいという矛盾した願望もある。
いちいち考えているとつい反省の沼に陥ってしまうのだ。
なんでもかんでも面倒臭がって思考停止することは怠惰であり退化でもある。熟考しすぎてもそれはそれで疲れるしいいことばかりではない。要は加減の問題。
ペネトレ:だれも言ってくれないさ。ひとからはそんなこと期待してもムダだよ。自分の場合は、自分自身で「これでいいんだ」って思わないとね。ほんとうにそれができるってことが「強い」ってことなんだよ。
結局バカボンのパパが最強説。
周りから見たら、なんでそんな自己肯定感高いの? と不思議に思う人がいる。
なんで? と思っている時、こちらとしては「よくもまあそんな図々しい」という蔑視が入っている。けれど一方でその人の強さにも見え羨ましくもある。
そして今、別の本から「自己肯定感」についてあれこれまた思索がはじまっている。