この著者の小説を読むのは5年ぶりくらいだろうか。
最後に読んだのが何だったか思い出せないけれど、こんな作風だったっけ? という印象が今回強く残った。
こんな、というのは、ひらがなと読点の多い、大人なのに舌足らずに話す女の人みたいな文体のこと。
そのべたべたした甘ったるさはリリという登場人物のキャラクターそのもので、久しぶりにはっきりとした嫌悪感を持った。
何が嫌かって、いわゆるブリっ子的なあざとさではなく、もっとタチの悪い狡さが見えることだ。
このまま一生、こういうふうに過ぎてゆくのかもしれない、とリリは思う。
「こういうふうって、なに」声にだして、リリは自身に問うてみる。
(中略)
「こういうふうに、わたしはここにいて、ここ以外の、どこにも行かないで」リリはつぶやく。
こんなつぶやきをする女、実際にいるとは思えないけど、もしいたとしても絶対友達になれない。
結婚して三年になる夫への愛情が薄れ、若い恋人ができ、その間をふわふわと漂っている、つまりやっていることはドロドロの不倫劇だというのに、さもか弱い小動物のように振る舞うのが、ムカムカする。そんな彼女をそっと掌で包むように扱う男にも、腹が立つ。
この怒りは、少し前に友人から聞いた話で感じたものとちょっと似ているな、と思った。
(仕事で)先を見越してプランB、万が一のプランC、何ならプランDくらいまで作ったりもするよね、という話をしていたのだけど、ある時友人がそれをしたら「こわーい」と言われた、と言うのだ。
彼女が怒ったとか相手を咎めたのではない。ただ代替案をいくつも用意して何かを段取っただけ。なのに「こわーい」と言われたというのを聞いて、え、なんで? という疑問とともに、「こわーいって言葉が怖い!」と、無性に(それを言った誰かに)ムカついてしまった。
友人のケースに限らず、すぐに「こわーい」と言う人(ほぼ100%女性)って、意外といる。
「こわーい」と言うことによって、自分が弱者(被害者)であることを申告し、相手を加害者に仕立てる手法。
本意は被害・加害の関係にもっていくことではないのだとしても、「こわーい」を言った人を誰かが責めることはできないし、何なら守ってあげなければならない立場ができあがっている。
言われる方の人は怖い人ではない。
ところが、先に切り札を切った方が勝ち(言われた方に罪悪感を持たせる空気)みたいなことになる、このシステムは何なんだ。
弱く見える方が実は芯が強かったり平気で人を傷つけたりする。
あー、こわいこわい。
リリだけではない。
親友(ということになっているが、そうは見えない)・春名は自意識がやたらと強い頭でっかちで、恋人・暁は一見爽やか好青年だけどリリの夫のことを「夫の人」と言うのが気持ち悪いし、夫は夫でプライド以外の感情が見えない、つまり出てくる人全員が嫌いだった。
どうしてわたしは今ここにいるの。
この疑問が、リリからも、春名の教え子からも、春名からも出てくるので、物語のテーマの一つは「居場所探し」なんだろうな、とは思う。
それについては、私も長いこと考えてきた。
居場所はどこだ、ここではない、どこか別のところにあるのかも、などと物理的にも精神的にもあちこち彷徨っては違う違うと思い続けていた。
私の親世代くらいまでは、自分の居場所なんてそう意識もせずにいたんじゃないだろうか。
自分どうこうの以前に、外部から「ここですよ」と示されるところが即ち居場所であることが一般的だった時代に、「ここではないどこか」という概念はたとえ不満があっても生まれにくい。
長男なんだから家の仕事を継ぎなさい、女なんだから嫁に行け、結婚したら一生添い遂げるべし、そういう圧力がどんどん薄まっていけば、無数に選択肢がありそうな自由と表裏一体で、どこに向かっていくのが正解かを見失う不自由さも生まれる。
どこかに居場所はあるはずだと信じ、あってほしいと願い、たどり着こうと探す。
けれど、本当は、ここが居場所だと言い切れる場所なんてないのかもしれない。
ここだと思えばここだし、そうじゃないと思えばそうでない。
なんだか幻のようなものを探さなければならないのも、自分に植え付けられた脅迫概念に思えてきて、私はもう居場所なんてどこでもいいや、くらいにしている。
これは、「本当の自分」を見つけようとするのと同じで、一つに限定されないものを追求しはじめたら無限のループになると、経験上知ったからだ。
どうしてわたしは今ここにいるの。
今となっては、ここにいる理由はともかく、これからどこにいることになるのかだってよくわからない(見通しが立てにくい)世の中。
どうして? と問えるのはイノセントな悩みだったのだと、しみじみ思う。