私はいろいろな物事に対して性善説というのは綺麗事に思えて好まず、性悪説側に立って考えがちであるのに、どうしてか、男と女のこととなると急に平和主義というか平等主義になる。
日頃、男って! おじさんって! と、腹を立てることはある。このブログにも、その類のことは結構書いている。
しかしながら、フェミニストかというとそんなこともない。
男も女も、お互いさまだよね
これが、私の考えの根底にある。
男って! と叫ぶのも、男性を罵倒しているというよりは、好きの裏返し。こうあって欲しいという理想があり期待があるからこそ、そうでない場合にがっかりするのだ。
さておき、女にとってのミソジニー(男にとっては「女性蔑視」で、女にとっては「自己嫌悪」)は、社会の中でどんな仕打ちを受けたか、どんな蔑視をされたか、という経験からくるものだと思っていたが、そうではなくて、どのような親(とくに娘にとっては同性の母親)のもとで育ったか(あるいは育たなかったか)が土台を築き上げていることがわかった。
勿論、対男性におけるネガティブ体験の影響は大きいのだけれど、ざっくりいうと、親による土台ありきで経験が積み重なっていき最終的なスタンスが定まるといった感じで捉えた。
本書の「9 母と娘のミソジニー」でそのへんのところが書かれているが、私にとってはただただ驚きの内容であり、また理解するのが難しい章だった。
わかるけど……そうなの?……そうなんだ?!……そうなのか……
メカニズムとして理解はできるのに、実体験がともなわず実感できないのだ。
女はミソジニーを母から学ぶ。母は娘の「女らしさ」を憎むことで娘に自己嫌悪を植えつけ、娘は母の満たされなさや不如意を目撃することで母を蔑むことを覚える。
子どもの人生に最初の絶対的な権力者として登場する母親が、それよりも強力な権力のもとにかしづき、翻弄されているのを、子どもは目撃する。
母の不如意は、その事態を自分で変えることのできない非力と結びついている。母は、自分の人生を呪っているにもかかわらず、同じような生き方を娘に強制することで娘の憎しみを誘う。娘は母を、「こうはなりたくない」反面教師とするが、母の呪縛を脱するにも、自分以外のだれか(男)の力を借りなければならないことを予期して、自分の人生をあなたまかせにしなければならない無力感におしひしがれる。そしてその男が、理不尽な支配を母にふるっている父とそっくりな男かもしれない予感におびえる。
まったく出口のない堂々巡りである。
あの愛されジャイアンに育てられたらこうはなるまい
愛されジャイアンというのは、我が母のことである。
典型的なガキ大将気質で、家族(夫と娘二人)にも、外の人――娘の担任教師だろうがお店の人だろうが、ときにはスピード違反で捕まえられた警察官にまで――にも意に沿わないことがあればずばずばと物を言い、「言ったった」とドヤ顔をするような人。
とくに夫婦関係においては絶対権力を握っている。
父の稼いだ金をやれ旅行だ服だ鞄だどこそこのランチだと浪費しながら、経済的には完全に支配者である父に「かしづき」「翻弄され」ている非力な母など一度たりとも見たことがない。
まさにあの「俺の物は俺の物、お前の物も俺の物」を地でいっちゃってるわけだけれど、結構な金品の横流しの恩恵に授かってきた私は文句を言えない。
父は父で決しておとなしく従う性格ではなく、人間性を疑うような暴言を吐くことも多々あるのだが、結局は金を巻き上げられながらもジャイアンについていくスネ夫のようになっている。
そんなことしてたら四面楚歌になりそうなものなのにそうはならず、逆に周りを取り込んでしまうのが母の人徳とでもいうのだろうか、なんだかんだで「この人には敵わない」と思わせ、むしろ「はっきりしていて気持ちが良い!」と魅了してしまうのだ。
母について書きだすと止まらなくなるのでこのくらいにしておくが、とにかくこのジャイアンに育てられたおかげで私は、幸か不幸か本書にあるようなミソジニーと無縁で生きてこられたのだと、初めて自覚した。
人は「女になる」ときに、「女」というカテゴリーが背負った歴史的なミソジニーのすべてをいったんは引き受ける。そのカテゴリーが与える指定席に安住すれば、「女」が誕生する。だが、フェミニストとはその「指定席」に違和感を感じる者、ミソジニーへの「適応」をしなかった者たちのことだ。だから、ミソジニーを持たない女(そんな女がいるとして)には、フェミニストになる必要も理由もない。
ときたま「わたしは女だってことにこだわったことなんて一度もないわ」とうそぶく女がいるが、この言い方は、「わたしはミソジニーとの対決を避けてきた」と翻訳するのが適切だろう。
違う。対決を避けてきたんじゃない。土俵に上がる最初の機会がなかったのだ。
冒頭に書いた、「男と女のこととなると急に平和主義というか平等主義になる。」というのは、母(女)でありながらジャイアン(男)に育てられたことで、私は女らしい女でも男っぽい女でもない、中立としての平和主義・平等主義になったのだと、一挙に腑に落ちた。
そのことと結びつくのかわからないけれど、もう一つここで気づいたことがある。
それは、性行為に対しても中性(中立)的な目線であること。
バイセクシャルという意味ではない(私は肉体的にも精神的にも女性で、ジェンダーの面では生きづらさを感じたことはない)。
具体的な経験でいえば、生まれて初めて性行為をすることになったとき、「処女を捨てる」感覚または「処女を捧げる」感覚のどちらもなかったし、以降、一般的な「男=やる(支配)・女=やられる(被支配)」の意識を持ったこともない。言葉にするなら「やり合う」というのが最も適していると思う。
自分のことだけでなく、援助交際やパパ活をする若い小娘に対して「やりたい人は好きにやれば」というのも、この「女が支配される側と思っていない」ところに繋がっているからで、「あなたたち、もっと自分のことを大事にしなさいよ」みたいな老婆心はゼロである。
そもそも、夫や恋人以外の誰かとセックスをすることが「自分を大事にしていない」ことを指しているのか。自分を大事にするって何だよ、そう問い返したい。
ただ、したくもないセックスを力でねじ伏せられ強要される場合の被害者は大抵女性であり望まない妊娠をするのは必ず女性であることに違いはないので、その二つに於いては十分に気をつけるべし、それだけは言えるけど。
話が逸れまくってしまった。
この本には他にも「非モテとミソジニー」「女子高文化とミソジニー」など面白いトピックが盛りだくさんで、もっともっと書きたいことはあったのに、まず自分のミソジニーが掘っても掘っても出てこないあまり、こんな感想になった。
しかしながら、興味深いテーマではあることに変わりはないので、また別の章を取り上げて何か書くかもしれない。