乱読家ですが、何か?

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【向田邦子ドラマ】隣りの女  

 

 

 ドラマには、夢があっていいなあ。夢があるドラマって、いいなあ。

 

 

 エッセイ『夜中の薔薇』を読んだ流れで、アナザーストーリーズという番組、からのこのドラマを観て、改めてそう思った。

 

 アナザーストーリーズでは、“平凡な主婦が隣りの女の情事に刺激され、奔放な性に目覚めていく物語”と紹介されている。

 

 

 時は昭和50年代半ば。高度経済成長を遂げ、女性もばりばり社会進出をしてはいるものの、一方で「女は家で亭主の帰りを待つ」ことがまだまだ期待されていた時代。

 

 私にとっては小学校に上がったばかりの頃だけど、それでも黒電話に掛けられた白いカバーとか、銀色のゴツゴツしたラジカセから流れるトシちゃんの『恋はDO!』とか、懐かしさを感じるくらいの記憶はある。

 

 

 このドラマの「夢」は、主婦が色っぽい男に抱かれることそのものでもあるし、でもそれよりも、男に会いたいという一心でニューヨークまで行ってしまった、その衝動、その昂ぶり、その解放感に凝縮されていると私には映った。

 

 主役である主婦を演じた桃井かおりはこう語っていた。

 

「行けるかなあ、ニューヨークにってことですよ。主婦が、ニューヨークに行けるかな。名古屋だって行くかな、と私は思ってたんですよ。そしたらね、向田さんが、行くんじゃない? ってなんか自信があるような、ちょっと目が動きながらの、あるんじゃない? っていう感じだったんですよ。」

 

 

 確かに、日々内職に励み、卵がいくらだトイレットペーパーがいくらだという現実を生きている主婦が、ただ男に会うためだけに海外へ行くなんて、なかなかできることではない。

 けれど、できないわけじゃない。

 一般市民だってパスポートを持って、円をドルに替えることは実現不可能ではない。

 

 この、「できなさそうだけど、やろうと思えばできる」ギリギリのところが絶妙で、観ている方は、「そうだ、できるんだ!」と勇気が湧く。

 

 

 それは映像からも伝わってくる。

 

 大泉で慎ましく暮らしていた主婦が、ところ変わってニューヨークでは肩にジャケットを引っ掛けて堂々と歩いている。SATCか! というくらい、堂々と、颯爽と、歩く。

 

 このドラマを同じ年代の主婦として観たら、そりゃあもう「私だって!」と思ったに違いない。

 

 やっぱり、名古屋とか福岡とかじゃ、ロマンがない。

 ニューヨークだからいいのだ。

 

 

 

 残念ながらお相手の根津甚八さんは私の好みのタイプではないけれど、あの、ただ上野から谷川岳までの駅名を呟く声はエロティックに耳に残る。

 

 

 上野。尾久。赤羽。浦和。大宮。……

 

 

 薄い壁を通して聴こえるこの声は、どんな愛の言葉よりも、どんな卑猥な囁きよりも、一億総中流家庭の主婦の中に眠る女の性を呼び覚ましただろう。

 

 

 にしても、駅名を並べるだけの台詞をこういうふうに使うというのが向田邦子の突出したuniquenessで、その発想はどこからきたのかと聞いてみたくなる。

 

 

 結婚もせず、ニューヨークだってどこだってその気になれば行けるし誰にも文句は言われない私だけれど、明日のためにラップをした皿を冷蔵庫に入れながら、「やろうと思えばできるんだ」と、心強いお守りを手に入れたような気持ちになった。

 

追記:歩きながら甘栗を食べるシーンも、なぜそんな食べにくい物を?! と思いつつ、器用に皮を剝いては女の口にぽいぽい入れる手先を見ていたら、ああ、だから甘栗かと納得。ポップコーンじゃ絶対この色香は出ない。