乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#148 fishy  金原ひとみ著

 

 

 某女優のW不倫で世間が騒がしい。

 有名人の不倫が暴露される度に、「当事者の問題」であり「家族や関係者に謝罪すればいいこと」という意見が出てくるにもかかわらず、やっぱり外野から大衆はやいのやいの言っている。

 

 私も大衆の一人としてネットニュースを見たり、記者会見を見たりもする。

 完全に好奇心からだけれど、見たからといってどうということはない。

 どこまでいっても所詮他人事、それに尽きる。

 

 この手の騒動で最も理解できないのは、無関係のどこの馬の骨かもわからない人間が匿名で残す「子どもがかわいそう」という言葉。

 子どもだろうが大人だろうが、かわいそうかどうかを決めるのは見ず知らずの他人ではない。

 何をもってかわいそう認定しているのか、お前は何を知っているのか、何様なんだよ、と暴力的な怒りすら覚える。

 そしてまたその怒りも結局は自分事ではないので自然と消えていく。

 

 

 それにしても不倫はそんなに悪なのだろうか。

 善行だというつもりはないが、そこまで(悪い)? というのが個人の思い。

 

 というのも私にもその経験があるからだ。

 

 二十代半ばから三十代前半にかけて、3人(+1人はかなり特殊な状況だったので一般的な不倫と言えるか判定できない)の既婚子無し男性と付き合った。

 私の場合は自分が独身だからWになることは絶対にないのだけど、我ながら私は不倫に向いていたと思う。

 向こうの家庭を壊そうなんて発想はなかったし、相手を独占したいと思ったこともないし、むしろ束縛されることなく週末は自由に使えて、相手は負い目があるのか常に優しいし、だから喧嘩にもならないし、互いに過剰な期待も依存もなく、とにかく全ての都合が良かった。都合が良い上に、楽しかった。不倫で嫌な思い出は一つもない。

 

 

 ポーケーベールが 鳴らなくて~

 

 みたいな湿っぽい女は不倫に向いていない。

 そう、不倫には、向き不向きがあるのだ。向いていない人はしない方がいい。

 

 

 なぜこんなことを書いているかと言えば、この小説の3人の主人公のうち、1人(美玖・28歳)は不倫をしていて、もう1人(弓子・37歳)は夫に不倫をされている。

 もう1人のユリ(32歳)は自称既婚子持ちではあるが、本当に結婚しているのかすらよくわからない謎めいた設定。

 

 年齢が微妙に違う彼女たちが定期的に飲みに行き、近況報告をし合うのだが、年齢だけでなく価値観も生き方もばらばらで、それぞれが「この女のこういうとこが嫌い」という感情を持っている。

 

 

勉強? してないよ、と言いながら隠れて猛勉強しているタイプだ。自分の外見以外のことに無頓着なユリは、弓子がそういう施術を受けていることにも気づいていないようだが、私がそういうことに勘づいていることは弓子も気づいているはずで、自分がそういうことを公言したがらないタイプであることをあなたは分かっているだろうし、あなたがそういうことを暴きたてない人間であることを信じている、という無言の圧力を感じる、そういう「女性性」の塊のような粘液をマグマのごとく溜め込んでいる彼女のサバサバアピールを目にすると、今や虚しささえ感じる。

 

 

 こんな裏の裏まで分析できる(分析せざるを得ない)くらい嫌悪感を持っているのなら会わなければいいのに。

 

 

「ユリは幸せな結婚生活送ってるんじゃないの?」

「幸せとか不幸とか、そういう定義もう止めない? 幸せとか不幸とか、羨ましいとか可哀想とか、そういう相対的な考え方、身を滅ぼすよ」

 安定のユリだ、と美玖が笑い、弓子も笑った。私もよく分からないのだ。どうして自分がこういう思考回路で生きているのか。どうして人に嫌がられる性質を持ち、その性質を捨てられないのか。普通に人に好かれたいし、普通に人に認められたい。なのに普通に人に嫌われ、普通に引かれる人生を送ってきた。

(中略)

美玖は弓子と顔を見合せて笑った。これだ。いつもこの仕草の後に切り捨てられる。

 

 切り捨ててくるような人たちと、どうして繰り返し繰り返し会うのか。

 

 単に寂しいとか暇だとか他に話を聞いてくれる人がいないからとか、そういうことも考えられるけど、にしても、だ。

 こんなふうに心の中で侮蔑したり実際口に出して傷つけ合ったりしてまで集う意味ってなんなんだろう。

 

 女同士ってそういうもの。そう雑に括ってしまうのは簡単だけれど、学生時代のように同じクラスで毎日顔を合わせなければいけない関係性でもなく、仕事上の利害があるわけでもなく、個人の意思だけで維持するか終わらせるか決められるはずの関係に固執する意味がわからない。

 

 実は根底に友情があるという話でもない。

 実際ユリは他の2人のことを「友達だったことはない」と言い切っている。

 

 釈然としないものが澱のように残る、その澱こそがタイトルの『fishy』(胡散臭い・生臭い)というわけか。

 

 

 ここで、友人とのメールのやり取りの中に、「友達と話していてムカついてしまった」という話があったのを思い出す。

 

 私はその友達の友達という人を知らないので、安直に「それはムカつくね!」と同意することはせず、自分がその人側だったらどうだろうか、また友人側だったらどうだろうかと、あれこれ考えた。

 

 そこから、「人を嫌うのは良くないという刷り込みがあるからそういう感情が芽生えたのでは?」「いや、むしろもっと嫌いになりたいという感じ」と、嫌悪感の発生の仕方や育ち方みたいなことに話は発展していき、これは一体何? と未だに名前のつけられない「あの感じ」が謎のままになっている。

 それはきっと、検索エンジンにいくら検索をかけても答えは出ない感情や感覚で、良い/悪いでもジャッジできない。

 

 いずれにしても、じゃあもう会わなければいいじゃんという結論にはならなかった。

 

 小説の3人も、友達と友達の関係も、私と誰かの関係も、嫌悪や苛立ちを持ちつつ断ち切るのではなく持続し成り立っていることがある。

 

 何でも賛同できて共感できて褒め合ってわかり合って気持ちいいイコール友情ではないことは百も承知。

 そんな人とだけ付き合おうなんて思ったらそんな人なんてどこにもいなくて、誰ともどんな関係も築けないだろう。

 

 人間が生身の生き物である以上、女同士にせよ男同士にせよ、夫婦恋人親子兄弟先輩後輩、あらゆる人対人の間には生臭さはつきもので、裏を返せば無臭の繋がりは繋がりですらなく、無ということなのかもしれない。

 

 

 それはさておき、金原ひとみの「ぬるい描写は許さない」といわんばかりの徹底的にえぐる筆致は、血の流れない自傷行為なのか、あるいは快感なのか。これもまた永遠の謎ではある。