リンデという一人の女性の16歳、28歳、34歳、47歳、3歳、63歳のある日の出来事が順不同に(年齢順ではなく)綴られている。
“まだ出会っていないだけで、もっといい誰かがいるはず。ほんとうに、お互い心から一緒にいたいと思える相手が、必ずいるはず。私たちは、その相手をあきらめずに探すべき。”
これは、一編目で16歳のリンデが二人の同級生に宛てた手紙。
上位グループからあぶれた者同士が「友達っぽい」感じをどうにか保っているのだからわざわざこんなこと告げなくても、とリンデに対して痛々しさを感じるのと同時に、学年全員の前で「私には本当の友達はいません」とスピーチしたあの時の自分が蘇る。
28歳のリンデは、恋人との旅行中にふとしたつぶやきで彼の機嫌を損ねてしまう。
ホテルの部屋にアイロンがない、レストランの空調が寒い、ただ事実を言っただけなのに、「愚痴ばかりだ」と非難される。
コミュニケーションの中で、あとひと言つけたせば、あるいはそのひと言を言わなければ不協和音は生まれなかったのに(そうではない方向へ行ってしまった)、という負の連鎖の書き方がエグい。
なんなら笑い話になったかもしれない小さな衝突が雪だるま式に膨らんで、核心を突くレベルの深刻な問題に発展していく。
これもまた、何気なく私が口にしたことが相手の地雷を踏むことになり、せっかくの旅行が台無しになったあの沖縄での夜の記憶を呼び覚ます。
そう、何歳のリンデも、自分がうまくできなかった”人との関わり方”をほじくり返してくるのだ。
まったく彼女に共感できないという読者のなかには、本当にリンデとはタイプが違うのだろうと思える人もいれば、ひょっとして近親憎悪かなと思わせる人もいる。
解説にはこうあるが、私は明らかに後者の方。
正しくは、「共感できない」のではなくて、「共感できすぎて嫌だ」という感覚。
正直さ故の不器用さがざらざらしたムードを作ってしまう。そういう経験を嫌というほどしてきた私は思う。器用に生きられる人(前者にあたる人たち)と、私との違いはどこにあるのだろうかと。
世の中には、要領よく、するすると生きている(ように見える)人がたくさんいる。
もちろん、誰にでも悩みや苦しみはあるし、彼らにだって何の苦労もないわけではないだろう。
それでも「なんだかいつもうまくやっている人」は一定数いる。
そっち側の人のことを即ち鈍感な人たちだと私は決めつけている。
つまり自分がうまくやれないのは、過敏だからだと。
鈍感になれれば楽だろうな。そう思いながらも、鈍感な人間にはなりたくないという矛盾もある。
だからリンデに対して、それでいいんだよと頭を撫でてあげたくなる愛情みたいなものが湧いて、それは自分の頭を撫でることでもある。
「もっといい誰か」を探すのがリンデの人生そのものにも見えるし、私もまさにその途中にいる。
しかし年齢によって期待度は違う。
若ければ若いほど、「もっといい誰か」は今目の前にいなくても確かに存在しているように思える。
が、齢を重ねる毎に、なかなかそんな誰かは現れない現実を知り、またそんな誰かがいなくてもどうにかなる術も知る。
孤独を飼い慣らす独り身の女を、「痛い」と片付けるほど、私ももう若くはない。
こんなはずじゃなかったと嘆くことも、最近はない。
本当の自分という幻を追う時代も終わっている。
ただ、あんなだった、こんなだった私が、今こんな感じ。そう受け入れてはいる。
が。
明日誕生日を迎えれば、47歳のリンデは私より年下になり、残すは63歳のリンデが私の先を行くことになる。
重要な仕事をしているように見せかけたり、一人分ではないお惣菜を買ったり、些末なことをリストアップして潰していくことで何かやり遂げたような気になったり、そうやって自分をいなす63歳の自分を思うと、それでいいのか? とぞっとする思いになった。