乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#87 鼻  芥川龍之介著

 

 

 読書メーターで、いつもスパイシーな感想を書く読友さんが最近読まれたのを見て、これは昔教科書で読んだような……と懐かしくなり、約三十年ぶり(?!)の再読。

 

 

 時は平安末期。

 顎の下まである長い鼻を気に病む僧(禅智内供)が、どうにかして鼻を短くしようと苦闘する笑い噺のような設定だった記憶は朧げに残っていたけれど、大人になって読み返すと笑ってばかりもいられない。

 

 

 身体的なコンプレックスを持つ者/それを見る第三者

 

 この短編では、両側の心理が書かれている。

 

それよりむしろ、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧れていた。

 

 内供の鼻は、弟子に持ち上げてもらわなければ食事もできないくらい長い。

 その見目の悪さや不便さ以上に、「気にしていることを知られたくない」という自尊心の悶絶。その思惑は、内心を覚られまいと決め込むすまし顔や下手な芝居で隠し切れるわけもなく、読んでいるこっちが居たたまれなくなる。

 

 

それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。(中略)内供はこう云う人々の顔を根気よく物色した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。(中略)内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。――しかし鍵鼻はあっても、内供のような鼻はひとつも見当たらない。その見当たらない事が度重なるに従って、内供の心は次第にまた不快になった。

 

 この同類を見つけてほっとしたい思い、私にだって心当たりがいくらでもあるから手に取るようにわかる。

 私だけじゃないんだ。あの人だって似たようなものだし。そんなにとくべつな欠点ではないんじゃないか。ひょっとしたらもっと酷い人だっているかもしれない。そう思えるならどんなに楽なことか。

 同じ症状を持っている人がいようがいまいが自分のそれが消滅するわけではない、そんなことはわかってる。わかっちゃいるけど、まやかしでもいいから拠り所が欲しい。

  

 

 さて原始的な民間療法のようなものを模索しては効果を得られない内供であったが、ついに鼻を短くすることに成功した。

 したのに!

 めでたしめでたしとはならず、なんと、これまでは直接的でなかった嘲笑があからさまになり、辱めを受けてしまうのだ。

 長い鼻を笑われるのは仕方がないとしても、短くなって笑われるなんて……

 

勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。

 

 この作品が単なる笑い噺で終わらないのは、「コンプレックス(不幸)を持つ者を見る者」の存在がちゃんと書かれているからだ。

 

 

 それはそうと、いつからかwin-winという言い方が世の中に浸透し、頻繁に耳にするようになった。

 はじめはビジネス用語だと思っていたら、あらゆるシーンのbetween you and me で平和条約的に使われているようだけど、私にとっては何となく耳障りで引っかかる。

 

 どちらか一方が勝ちもう片方が負けるのではなく双方に良きように、という考え方は素晴らしい。なのに、得てしてこの言葉を発する人が若干ドヤ顔で、どちらかというとより勝ちに行きたいタイプに見えてしまう。対等なようでいて、「そちらを負かしはしない代わりにこちらも負かされはしません。まあでも少しだけこちらが優勢なんですけどね」と暗に示していると感じるのは私だけだろうか。

 

 とはいえ私は、そもそも人間の根底にあるのはwin-winの精神ではなく、勝ちたい、優位に立ちたい、蹴落としたい、そっちの方だと思っている。

 こういう闘争心や欲望は(最近とくに)美学ではなく悪とされがちだが、人間とて厳しい生存競争を生き抜いてきた動物なのだから、本能的に持っているものだし、良いも悪いもなく、否が応にも在るもの。

 ただそれを理性とか倫理観とかの、後からつくった概念と時代の空気によって、お互いが平等に利益を得ることを善として、みんなそんなふうに装っているだけのことで。

 

 でも根っこに在るものはなくなったわけではないから、時々うっかり顔を出す。

 他人のコンプレックスを嘲笑い、不幸でいて欲しいと願い、そうでなくなると物足りなくなる。この残酷さは、後付けの理性では表に出さないことはできても抹消するのは不可能に近いと思う。

 

 私の職場に、誰かがミスをしたりトラブルを起こすと途端に生き生きとした顔で首を突っ込む人がいる。困っている人を助けようという正義感ではない。野次馬の如く輝く眼が、心底私を不快にさせる。しかしその不快感は映し鏡の法則で、自分にもある部分だからこそ感じる種類のものだということもはっきりわかるから、二重に嫌な気持ちになる。

 

 

 内供の周りの人たちも、人間離れした鼻を持つ内供を可哀想だと思い、同情しながら自分がそんな鼻でなくて良かったと安心し、密かに馬鹿にしては面白おかしく思っていたのだろう。

 それが許容範囲内の鼻になってしまえば、気持ちのいい優越感を取り上げられることになる。だから消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事として、あからさまに笑うようになったというわけだ。

 

 

 結局のところ、同じ不幸を持つ誰かを見つけたい内供の思いと、他人にずっと不幸でいて欲しいという周囲の願いは、「人と比べてどうか」という同じところから派生している。

 

 人と比べるのをやめましょう。みんな違ってみんないい。

 

 理想として掲げるには、申し分のない幸福論。

 

 でも現実は、万人が美男美女で才能がありお金もあり人柄は申し分なく人間関係も円滑で病気もせず毎日が楽しくて仕方がない、なんてことにはなっていない。

 

 どうしようもなく人と自分を比べ、嫉妬し、上だ下だと位置づけ、競いながら、仲良くしようね、みんなで幸せになれたらいいよね、と私たちは大きな矛盾とともに生きている。

 人間の不完全さと、だからこその愛らしくもある愚かさを、しみじみ感じる作品だった。