乱読家ですが、何か?

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#85 精神病覚え書  坂口安吾著

 

 安吾が一時期薬物中毒だったのは知っていたけれど、精神病で入院したことがあるのは初耳だった。

 ムリに仕事をするために覚醒剤を多量に用いざるを得ず、眠るためには多量の睡眠薬を用いざるを得ず、鬱病睡眠薬中毒が加わったと安吾は自己分析している。

 そしてその治療のために東大病院に入院し、自分に施される療法や周りの患者を観察した記録がこの『精神病覚え書』というわけだ。

 

僕個人の場合であるが、患者としての僕が痛切に欲しているものは、ただ単に健全なる精神などという漠然たるものではなく自我の理想的な構成ということであった。

大体、健全なる精神とは、何のことだろう。どこに目安があるのだろう。ある限度の問題かも知れないが、そんな限度は、患者としての僕にとって、問題ではなかった。

僕はその時、思った。精神病の原因の一つは、抑圧された意識などのためよりも、むしろ多く、自我の理想的な構成、その激烈な祈念に対する現実のアムバランスから起るのではないか、と。

 

 

 精神の不調というとすぐにトラウマだインナーチャイルドだと心の奥底に潜む抑圧と結び付けられることが多い。

 私はその紐づけはちょっと安直すぎやしないかと常々思っていた。

 もちろん本格的な幼児虐待などの体験がトラウマとなり、深刻な神経症または精神病を引き起こし苦しんでいる人は大勢いるだろう。

 

 ここではそういったケースは除外して、私が安直だというのは、ちょうど占い師が「そういわれてみれば、まあ思い当たらないことはない」と多数の人に当て嵌まるようなことを言うのと似ている。あるいは、医者が原因不明のもののほとんどに「まあストレスでしょう」と免罪符のように言ったり、マッサージ師が「自覚はなくても凝ってますね」と言ったりするのと。

 生まれてこのかた何の痛手もなく、嫌な思いを一つもせず、辛苦を味わったことのない人なんていない。だから、過去の出来事や人間関係での軋轢が潜在意識に抑圧され、それが現在の不調に繋がっているのだと言われたら、そうかそうかと納得するのはとても簡単だ。

 

 そうではなく原因は激烈な祈念に対する現実のアムバランスだという安吾の実感の方が私にはしっくりくる。少なくとも、私が精神的に苦しいと感じる時は、抑圧された意識よりも、この現実との闘いであることがほとんどだから。

 

 

 後半で安吾は、自分の入院を「麻薬中毒」だと報じ「飛び降り自殺をした」とデマを流した新聞記者に対し、むしろ彼らの方が常軌を逸していて精神病的ではないが犯罪的だと繰り返す。

 

自ら背徳を行いつつ、それを他人にのみ責めて、内省することを知らない。精神病者には、こういう内省のなさ、他人への無礼に対して自ら責めることを忘れている者は居ない。

 

 ここには個人的な恨みも含まれてはいるが、この後の締めくくりで私は泣きそうになった。

 

もしくは、より良く、より正しく生きようとする人々は精神病的であり、そうでない人々は精神病的ではないが、犯罪者的なのである。

 

 この作品に何度も出て来る「精神病的」という言葉を、私は「敏感」と置き換えて読んだ。

 過敏であれば当然傷もつき易く、傷つけば痛い。けれど、この最後を何度も読んでいたら、精神病的であっても、より良くより正しく生きようとするのを止めないでおこう、そんな気持ちになった。

 

 それから、『コンビニ人間』(村田沙耶香著)の主人公や白羽さんのことを思い出した。

 彼らは確かに精神病的ではあるし、周りにいる「普通」の顔をしている人たちは犯罪者的だ。

 

 ここでまた「普通」って何問題が浮上する。

 

 私が精神病理学精神分析学に興味を持った発端もそこで、正常と異常の境界って一体どこなんだろう? 私が異常ではないとどうして言い切れるのだろう? という疑問からだった。

 

 正式に(?)精神障害と診断するには当たり前だけど病理学的な基準(DSM)もちゃんとあって、それが目安であることは確かだけれど、それに引っかからない所謂グレーゾーンを挟んで白と黒の境目は実に曖昧模糊としたグラデーション。

 

 そしてグレーゾーンの中に、「あの人は普通じゃない」「病的だ」と医者でもない人々の多数決でジャッジされるものが多く存在している。これは、やっぱりおかしい。そんな感覚的・感情的な印象で烙印を押されるなんて、変だ。

 

 しかし一方で、きっと自分の中にもある偏りや拘りだって度が過ぎれば正常の範囲を超える可能性は全然あるし、それで“普通じゃない判定”をされたとしてもあながち的外れではないのかもしれない。とも思う。

 

 何にせよ、普通が何かの問いに答えなんてないし、出そうとしても無駄だ。

 日常における価値観だって、私の周りでは、普通そんなことしないよね?! ということを普通にする人が普通にいる。それで裏切られた思いになろうが腹を立てようが、彼らの普通と私の普通の溝は埋まらない。

 そんなことを繰り返せば馬鹿でも自分の普通がどこでも誰にでも通用するものではないことはわかる。なので、普通さー……(溜め息)と思わないことにしている。いや、反射的に思うけども。無駄なんだよなと思いながら思う。

 所変われば普通も変わる。人が違えばまた変わる。そんなのあってないようなもの。

 

 

 私に言えるのは、内省に内省を重ねる精神病的な人の方が信用できるということと、もしかしたらそうでない人よりも少しだけ不幸かもしれないということだ。