乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#72 神楽坂  矢田津世子著

 

 

   『太宰治情死考』(坂口安吾著)を読んで、太宰もいいけど安吾も素敵♡なんて節操なく思ったりしたのだけど、安吾には矢田津世子さんというれっきとした恋人がいらっしゃった。

 

 調べてみれば女優さんのように美しいお顔立ちで、しかも本書は芥川賞候補にもなったというのだからまさに才色兼備。さすが安吾、お目が高い。

 さらにこの方は、林芙美子ともお友達だったようで。世の中狭いっていうか、濃い~時代だったのだなあ。

 

 

 さてお話は、馬淵の爺さんが、病床の妻のいる自宅と若い妾の家を往き来する他愛もない日常が書かれている。

 妾(とその母親)が徒歩圏内に住んでいて、堂々とまではいかなくてもそこへせっせと通うのが日常といえるのもまた時代。今だったら大炎上するようなことがさらさらとおこなわれている。

 

 

 両宅があるのは神楽坂界隈。

 かつて私は飯田橋の会社で働いていたことがあって、その頃初めて神楽坂を歩いた。

 大学時代は渋谷とか新宿とかわかりやすい歓楽街で遊ぶことが多かったので、同じ県(都)の中にこのような趣深い街もあるなんて東京はやっぱりすごい! と、いたく感激したものだった。

 紀の善のあんみつ、不二家のぺこちゃん焼き、五十番の豚まんなどの名物を食べたり、毘沙門天の前で誰かと待ち合わせをしたり、一見さんお断りの料亭に連れて行ってもらったり。そんな思い出のあるロケーションで爺さんが小路からひょっこり現れる画が浮かんでくる。

 

 

  しかしこの爺さん、本文にも「根がしまつ屋」とあるように、なにしろケチくさい。

 自宅には妻の世話をする女中をおき、妾の面倒も見ているくらいなのだから貧乏なわけではなく、単にお金への執着が強い、よくいえば倹約家。高利貸しという職業柄であるにせよ、小銭を気にしいしい何事につけても頭の中で算盤をはじく様はおかしみを誘い、どこか憎めないキャラになっている。

 

 

爺さんは大がい家で飯をすますことにしている。すんでいないといえば小鉢のもののような、つきだしでさえ仕出し屋から取りつけているここの家では月末にそれだけを別口のつけにして請求してくる。(中略)その実は、つけの嵩んでくるのが怖さにめったに妾宅では御膳を食べることをしない。

 

 飲み会に行く前におにぎり食べる若者みたい。(こういう人、いるいる。)

 

馬淵の爺さんが妾宅を出たのは十一時が打ってからであった。毘沙門前の屋台鮨でとろを二つ三つつまんで、それで結構散財した気もちになって夜店をひやかしながら帰って行く。

 

 帰りに鮨をつまむくらいならお妾さんのとこでかっこつければいいのにね。

 

 こんな爺さんではあるが、奥さんが素晴らしく良い。

 躰が思わしくないながらも手先を動かしていたいと針仕事をし、孤児院育ちの不憫な女中・種を娘のように可愛がる。妾のいる吝嗇な夫に文句を言うこともなく実にできた妻なのだ。

 

 しかし内心では妾の存在を良くは思っていない。(そりゃそうだよな)

 

ふと、内儀さんが針の手を停めて、じっと何かに視入っているような気配を感じて種は目をあげた。障子の裏側を一歩期の毛虫が匍いのぼっていく。内儀さんの眼はそれに吸い寄せられている。(中略)毛虫が四つ目の桟を越えた時、内儀さんは障子へ手をのばした。毛虫はひとうねのぼった。内儀さんは持っていた針を突き刺した。毛虫は激しくうねった。うねりながら針に刺された体が反りかえった。緑色の汁が障子を伝って糸のように垂れた。内儀さんの眼は毛虫を離れないでいる。やがて、うねりが止んで、針に刺されたままの黒いからだが高く頭をもたげて反りかえった。

 

 

 内に秘めている嫉妬と怒りが静かに毛虫に向かう。

 普段は口数も少なく妾のことにも滅多に触れない奥さんの驚きの行動。なんだけれど、こんな恐ろしい場面さえもこの著者は軽やかに書く。

 

 

 

 コロナ禍もフェーズが進んで私も日常に戻りつつあるけれど、なんとなくまだ長い小説や感情を揺さぶってくる類のものを読むのがしんどい。そんな時、こういった軽妙な筆致の小説はもってこいだと思う。

 五十代後半くらいで爺さん爺さんいわれるようなおよそ今私たちがいる日常とは接点のないお話は、過敏になっている神経にずけずけと土足で上がって来ることがないから安心して読める。

 ただ、芥川賞候補になるほどの傑作かといわれれば首肯しかねる(どちらかといえば直木賞向きかなという印象)ので、安吾矢田津世子の才能を認められず「私を敬服せしめるものではなかった」というのは強がりではなく本心だったのだと納得。