映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』にも登場する坂口安吾(演者は藤原竜也さん)。
バーで一人酒を呑む太宰の前に至極酔っ払って現れ、煽るように言う。
「太宰、書けよ、傑作。」
「人間は、堕ちる。生きてるから堕ちる。なあ太宰、もっと堕ちろよ。」
安吾が太宰と同じ時代に生き、こんな交流があったとは知らなかった。
1940年~60年代くらいまでの近現代文学を中心に読んだ時期もあったわりには作家同士のつながりや○○派・○○主義などの分類には無頓着な私であるが、知っていたらより深く楽しめるんだろうなと思うことはままある。
私の中で、文学史といえば高校で現代国語を教えてくれた斎藤先生。
学校一厳しい先生で、授業の5分前には全員席につき起立の姿勢で軍隊のように先生を待ち構えていた。
黒板や黒板消しが汚れていたり短いチョークしかなかったりするとヒステリックな怒声を上げ立たされたまま長い長いお説教が始まるので、クラス一丸となって準備は怠らない。
その厳しさ故にとにかく恐れられ嫌われてもいたのだけれど、私は斎藤先生の授業が好きだった。
とくに文学史に精通していて、「えー、実は芥川は……」など教科書には載っていない作家のバックグラウンドや誰と誰がどんな関係性だったなどをそらで滑らかに語られる先生を、「斎藤、まじすごい!」と超絶リスペクトしていたのだ。
であるからして高校3年生の選択科目も、学年(200人以上)で5人くらいしか取らない斎藤先生の小論文を敢えて選び、果敢に挑んだものだった。
斎藤先生、お元気かしら。
あ、脳がタイムスリップしてしまった。
時を戻そう。
この十数ページの短いエッセイで、私は著者の太宰に対するまっすぐな友愛を見て、なんとも言い難い切なさと清々しさに満たされた。
女にだらしのない太宰に低俗な嫉妬を交えずに、純粋に同志として付き合えた奇特な人だったのかもしれない。
だから安吾は、世間では「情死」といわれている太宰の死を、あれは情死ではないと否定する。太宰は相手の女性に惚れてなどおらず、もし惚れていたなら死なずに生きるはずだと。
惚れてもいないのに、惚れていないからこそ、女に付き合って死んだ、それを情死だなんてさも愛し合っていたみたいに人々が認識しているのが我慢ならなかったのだろう。
友をなくした哀しみを、奪われた悔しさを、惚れられてもいないくせにと相手の女性(山崎富栄のこと。本作ではサッちゃん)をこきおろすことで拭い去ろうとしているような気がする。
第一、小説が書けなくなったと云いながら、当面のスタコラサッちゃんについて、一度も作品を書いていない。作家に作品を書かせないような女は、つまらない女にきまっている。とるにも足らぬ女であったのだろう。とるに足る女なら、太宰は、その女を書くために、尚、生きる筈であり、小説が書けなくなったとは云わなかった筈である。
スタコラサッちゃんとはまた随分な言いようではあるけれど、こういうことを、所謂“忖度”を匂わせて、サッちゃんにはサッちゃんの事情があったのかもしれないとか二人の関係は二人にしかわからないとか、どうでもいいようなエクスキューズを1ミリも挟まずに断言しているところがいい。
口の悪さの裏に見え隠れする人情と律義さ。
太宰もいいけど安吾も素敵♡
なんて節操のないことを思ったりした。
どんな仕事をしたか、芸道の人間は、それだけである。
どんな生き方をしようがどんな死に方をしようが、結局どんな作品を残したかがすべて。
破天荒といわれる著者自身の生き様であり、また、今尚多く読まれ続ける数々の名著を残して死んだ太宰への最大の賛辞ともとれる一文が、ずしんと響く。