またヤザキの長い独白が始まった。
『エクスタシー』で、「ゴッホがなぜ自分の耳を切ったか、わかるかい?」と話しかけてきたNYのホームレス。それがヤザキだ。
『エクスタシー』はカタオカケイコの語りがメインだったが、『メランコリア』はほとんどがヤザキの語り。
しかもまたページを捲っても捲っても句点が現れず、過去の話が綿々と続く形式で、もう何の話なのか、この男は狂っているのか、この話に終わりはあるのか、今どういう状況でこの長い話を聞かされているんだったか、全部どこかへ吹っ飛んでいきわけがわからなくなる。
はっきり言って読みにくい。読みにくいのだけど、読まずにはいられない。
不愉快で不可解。
ヤザキの話を聞かずにはいられない「わたし」(小説の中の聞き手)と同じ目に遭うというわけだ。
話としては、ヤザキがなぜホームレスになったのかというインタビューを通して見えてくる彼の過去――レイコやケイコと過ごした日々、そこで負った傷――や、インタビューをするうちにヤザキに惹かれまた巻き込まれていくわたし(ミチコ)の物語なのだけど、カナモリサナエという女をいたぶる場面が強烈に残った。
ヤザキが日本でミュージカルのオーディションをした、そこへ現れたのがサナエ。
四日間のオーディションで初めはシリアスでスケベなジョークを交わして不快をごまかしていたんだが三日目の夜にもう限界が来てしまってイケニエがなくてはこの仕事は続けられないとPJは言いだしてオレも賛成だったんだがどうしてそういう残酷な結論というのはいつも正しいんだろう、カナモリサナエという中肉中背でとりあえず皮膚の薄いバレエ顔をした二十代半ばの山形出身の女が現れたんだ、(中略)山形で八歳からバレエを始めてすぐにモダンに転向という恥知らずな始まりで、十五歳の頃から地元の高校で創作ダンスを発表し東京の誰それさんからおほめの言葉を頂くってまあそういう調子だったよ、(中略)
そういう奴を前にしていろいろやり方があるんだけど幼稚なのはさらにどんどん追いつめていくっていうやつなんだ、切れた神経がくっつかないようにさらに攻撃していくわけだがそれは案外効果がないもんなんだよ、コントロールできなくなったと判断した脳は、反撃する準備を整えていて、その方法を捜しているから、こちらが攻撃を加え続けると、このカナモリサナエの場合なんかは、オレへの憎悪を発生させて切り抜けようとするんだ、(中略)とりあえずカナモリサナエのような場合には憎悪に向けて彼女が逃げ込めないようにしなきゃいけないんだ、
下意識にある「恥」への刺激。
表面的な、たとえば人前に出るのが恥ずかしいとか失敗をして恥ずかしいとかそういうことではなくて、意識の上では恥じていない、むしろ矜持すら感じることのある「こんな私」そのものに対する恥を引っ張り出されるようだった。
言葉だけで他人の精神を崩壊することは簡単なのだという脅威と、でもなぜかその先にはとんでもない快楽があるのではないかという期待、村上龍の編み出す台詞は矛盾した思いを同時に抱かせる。
おそらくサナエは田舎の小さなコミュニティでは綺麗だ才能があるだとちやほやされ、本人も内心その気になっていた、ところが外へ出てみればそんなものは勘違いでしかなく、まったく笑っちゃうよ、と図星をさされているのだけど、なにが悲しいって、簡単に勘違いできる人間であればあるほどその指摘にも鈍感であるのだ。
私はどちらかといえば「恥の多い生涯を送って来ました。」の方に共鳴する太宰的自意識過剰なタイプではある、が、それでも格好つけて悦に入るような部分は絶対にあって、そこを暴かれてしまったような恥ずかしさ。
本の感想でよくある「救われました。」と真逆にある何か。
それが単なる嫌悪感ではないのは、やっぱり私の中のマゾヒズムを突いてくる絶妙な攻撃だからかもしれない。
平凡に生きていたら、ヤザキみたいな男にこんな目に遭わされるなんてことはない。
けれど、文字だけを使ってこちらの意思とは関係なく疑似体験としてあっさりそれを差し出してくる。恐るべし村上龍の才能に震える。