乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#160 犬のかたちをしているもの  高瀬隼子著

 

 

 ミナシロ! お前!!

 

 何度も何度も大声を出したくなった。

 理不尽だ。理不尽だ。理不尽だ。

 

 こんな話よく書いたな。

 それは、よくぞ書いてくれたという意味でもあって、昨年読んだ本の中で最も感情を揺さぶられた一冊だった。

 

 

 なのに、だからこそ、なかなか感想を文章化できないまま、私の怒りはどこからくるのかずっと考えていた。

 

 そもそも男女の関係においては、女はセックスを「させてあげる」側であるという事実。

 そして、女性には「母性」が備わっているのが当然だとされていること。

 

 このふたつに対して「当たり前だと思うなよ!」と私は怒っているのだ。

 

 前者に関しては、体の構造上、入れる方(男)と入れられる方(女)で、精液を出す方(男)と出される方(女)だから、能動―受動の関係になるのはどちらが良い悪いということではない。だって、そういうつくりだから。

 

 けれど、受け手側(女)がセックスをしたくない(あるいはできない)という消極的な姿勢を見せると途端に「愛情がない」と断定される。

 それとこれとは別、ということもあるなんて想像すらできない男たちに腹が立つし、同性でも無理解な人がいることにはもっと腹が立つ。

 

 

 それ故に、主人公(間橋薫)に理不尽の極みみたいなことが降りかかる。

 

 おかしい。こんなの絶対におかしい。理不尽にもほどがある。

 ふつふつと沸く憤り。憤りながら、あなたは悪くない。絶対に、全然、ひとつも、悪くないよ。そう念仏のように薫に唱える。

 

 そして、あなたはもっと怒ってもいいのだ。なぜその怒りを放出させないのだ、ともどかしさでいっぱいになる。

 

 ドトールで水をぶちまけようが、大声で喚こうが、責められる筋合いはないくらいのことが起こっているというのに。

 

 

 ここまで感情移入してしまうのは、私にも薫と重なる部分があるからだろうか。

 つきあい始めて最初の数ヶ月はセックスもする。けれど、だんだん面倒になり、煩わしさから苦痛に変わり、しなくなる。しようと思えばできるけど、我慢するのも何か違う、だからしない。

 

 薫の場合は、卵巣の病気をしたことと、セックスをすることで「相手に大切にされていないと感じる」ことが原因。

 そこは私とは違うのだけど、「だからといって相手のことを好きじゃなくなったということではない」というのは全く同じ。

 

 ただ、男性からすれば恋人なのにセックスをさせてくれない=愛情がない、と体と心は完全一致しているはずだと馬鹿みたいに思い込んでいる(ことが多い)から、女性がセックスを拒否することに罪悪感を持たざるを得なくなってくるのだ。

 

 

 薫にはつき合って3年の半同棲状態の恋人(田中郁也)がいる。

 はじめの数か月以降はセックスをしていないのだけど、郁也はそれでもいいと言い、実際薫のことが大好きである。

 

 これだけなら、双方承知の上で関係は成り立っているから問題ない。

 

 

 なのに。

 

 突然会社帰りのドトールに薫を呼び出し、そこにミナシロさんという知らない女性が伴っている。

 なんでも郁也は、もともと大学時代の同級生だったミナシロさんにお金を払ってセックスを何回かしたことがあり、挙げ句の果てに子どもができてしまったのだという。

 

 こんな意味不明の出来事だけでもちょっと待てと言いたくなるのだけど、このミナシロさんがまたどうにもクレイジーな女で、もう誰に何を怒っていいのかわからなくなる。

 

 クレイジーといっても、ごく普通に会社勤めをしている人で、本当に気が狂っているわけではない。とにかく無神経な人なのだ。

 

 

 この人は、許されることに慣れている人だろうな、とふと思う。

 許される要素のひとつもない話で、責められてなじられて罵倒される覚悟もありそうな様子なのに、でも最終的には許してくれるんでしょ、と思っていそう。

「わたし、子どもが嫌いなんです」

 間橋さんは、好きですか? 子ども。ミナシロさんが言う。

「産むのだってこわいし、痛いから本当は嫌だけど、堕ろすのはもっとこわい。だけど育てる気はありません。育てられない。もともと、こんなはずじゃなかったんです。子どもなんてできるはずじゃ」

 間違えちゃいました。あっけらかんとした調子で口にする。あ、無理してる、と思う。ミナシロさんの唇の右端が少し震えている。当たり前のようにひどいことを言ってのけるところに、演技の気配を感じる。

 

 こんなこと許されると思うなよ!

 と、薫は言わない。冷静ではないはずなのに冷静に、ミナシロさんを観察している。

 

 薫はミナシロさんの態度を「無理してる」としているけれど、私にはそうは見えない。

 真の図太さがなければこんなことを言えるはずはないし、言っているということは無理なんかしていない。

 

「この人も、内心怯えているのに無理をしているのだな」ということにするのは、薫の人の良さでもあるが、田舎から東京に出て来た者特有の劣等感と、子ども全般を好きだと思えない性質が絡んでいて、その書き方が本当に巧い。

 

 もしわたしが東京に生まれて、東京で育っていたら、もっといろいろ、考えないで済んだだろう。それに男だったら、人生に起こったひどいことのほとんどが、なくなる。時々、そんな風に考える。

 

 無条件に子どもが好きな人、というのが一定数いる。街を歩く子どもを見てかわいいと思い、電車やバスで隣に乗り合わせた子どもにほほえみかけ、その親の見ていないところで小さく手を振ってみせるような人が。

 自分もそういう人間だったら、楽だったろうと思う。(中略)なんというか、世間と足並みが揃えられるって楽ちんじゃないか。

 

 東京で生まれ育って、ある程度の年齢になったら結婚して子どもを持つ。

 そういう人生が普通にある人々と、そうでない人の間にある何か。

 ずっと私の中にもどうしようもなく存在する何か。

 幸せか否かではなくて、勝ち負けでもなくて、ただ、圧倒的に違う何か。

 

 

「間橋さんがエッチしないのって、なんでなんですか?」

(中略)

「なら、性行為、でもいいです。真面目な感じ出すなら。なんで、田中くんとしないんですか? 病気だからって別にできないわけじゃないんでしょう? それともやっぱり痛いんですか」

 

 デリカシー!!!!

 

 

 理不尽を理不尽と思わない別の視点が必要なのか、はたまた理不尽を理不尽として受け容れた上でうまく昇華させるのが正解なのか、今のところ怒りを持て余すことしかできない私にとっては一生解けない禅問答のようだ。