乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#119 何様  朝井リョウ著

 

 

『何者』で就活をしていた大学生が社会人になった続編だと思っていたら、『何者』に出てくる一人の高校時代だったり、あの人とあの人の出会いだったり、あるいは家族の誰かのことがそれぞれ短編になっている、所謂スピンオフだった。

 

 私が『何者』で警戒していた理香も出てくる。

 TwitterのアカウントをRIKAではなくRICAにしているC表記採用、つぶやく内容の薄っぺらさ、発言から見える頭の悪さ、とにかくいちいち神経を逆なでしてくる女だったが、「それでは二人組を作ってください」という表題からして不穏な本作(短編の中のひとつ)で書かれている彼女を、そうそう馬鹿にしてばかりもいられなくなった。

 

 

 本当に馬鹿なのではなく、「おバカ」を演じる癖がついている、その癖は保身のためで、そうしなければ渡り歩いていけない可哀相な人。

「可哀想」だなんてやっぱり見下しているんじゃないか、ということではない。

 一歩間違えれば私だってそうだったのだと初めて彼女と自分が重なり、憐れみ混じりではあるが味方したくなったのだ。

 

 

 鈍感なふりをして、平気なふりをして、ひとりぼっちであることを周りにも自分自身にもおかしなこととして感じさせないため。淋しいと思われないため。淋しさを自覚しないため。みじめに見えないように、みじめだと感じないように。

 

 でもその努力が、相手の話を聞かない、気持ちを慮らない、自己中心的な友達ともいえないような人のためにすり減っていくのが痛ましい。

 虚しさに薄々気付いているはずなのに、けなげに振舞い続ける理香は、なぜ一人でいることを選ばないのだろう。

 

 

「朋美って、あの番組毎週観てんの?」

「観てるよ。私の友達みんな観てるよ?」

 私は観てないけど、と言いかけて、理香は口をつぐんだ。真四角の大きなお皿に三種類のおかずと雑穀米が揃えられているランチプレートは、ドリンクをつけると一四00円もする。

 

 あなたは「私の友達」に含まれていないと言ってるも同然であることを、発言者(朋美)は意識もせず、相手がどのように傷つくかなんて考えたこともないだろう。

 

 朝井リョウの巧いのは、それで終わらずにランチプレートの描写が続くところだ。

 この描写は、話のあらすじを理解するだけならなくても支障はない。伏線でもない。けど、ある。ある意味が、ある。

 

 いかにも健康的かつ“映え”そうで、でも実際は大したことのない内容、それでいて無駄に高いランチプレートは、理香を取り巻く女同士の関係性そのもの。

 中身なんて、それっぽければ何だっていい。

 

 

 そんな奴とでも、一人でいるよりマシ?

 そんな奴でも仲良くなりたい?

 

 

 勇気を持て。と私は理香に言いたい。          

 

 

 やっとだ。理香は、大きく息を吐く。やっと、私も参加できる。

 あやとり。

 修学旅行のジェットコースター。

 体育の前のストレッチ。

 私もやっと、二人組でできている世界の中に、参加することができる。家族とではなく、友達と手を繋いで、堂々と参加することができる。

 

 

 一人でいることがマイナスに捉えられるのは、子供が家庭外に出てすぐに植え付けられ始める正しくない共通意識だ。

 私自身、記憶を遡れば遡るほど、集団の中で一人になってしまうことの恐怖と、そうはなりたくないという抵抗が強くあった。

 

 でもある時、気付いたのだ。

 そんなものはくだらないと。

 無理をしてまで群れるのは、時間と労力の無駄だと。

 そして、一人でいることは恐れていたような地獄ではなく、自由があり、清々しいものだと。

 

 

 朋美ですり減った心を、他の都合の良い誰かで埋めようとする行為は、寄生でしかない。ということも言いたい。

 

 一方で、互いに寄生し合うことこそが人間関係なのかもしれない、とも思う。

 それは悪いことではなくて、生きていくのに必要な人間の当然のおこないなのかも? 

 いやどうだ、必要か? しばらく逡巡する。

 

 この人はバカだ。きっと、私よりも。

「だから、私と一緒に、住んでくれないかな」

 結局私は、自分よりもバカだと思う人としか、一緒にいられない。

 

 こうしてちょうどよく現れた宮本(隆良)との暮らしが始まった。その少し後が『何者』で書かれたカップルだったわけだ。

 

『何者』では、隆良も隆良で周囲をことごとく馬鹿にしていた。それは心底からでもあるし虚勢でもあったのだけど、そんな人があっさり理香の誘いに乗って一緒に住むようになった真意はいったいどんなものなんだろう。

 

 

 人と調和して生きていくことについて、なんだか判然とせず考えている。ひとりで。