乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#82 教団X  中村文則著

 

 

 実は今回が三度目の再読。

 

 過去二回は、宇宙の仕組み(量子力学)や戦争とか政治とかに疎い私にとっては難解な箇所が多すぎて登場人物のバックグラウンドから相関関係に至るまで見失ってばかりで、およそ理解には遠かった。

 そのままでは口惜しいので意を決して挑んだ三度目にして、ようやくああそういう話だったのか、くらいにはなった。

 

 

我々がなぜ生きているのか。その理由を今から私なりに述べましょう。それは、物語を生むためです。会社員として生きた物語。部屋にずっと閉じこもり、二十年後、勇気を出してそっと外に出た物語。我々は物語を発生させるために生きている。我々は、我々の物語を生きるために生きている。無数の物語を、我々はこの世界に発生させ続けているのです、そしてその物語に優劣はない。

 

 

 これは、かなり後半で、ある人が死ぬ間際に多くの人たちへ向けて遺した長いメッセージの中のほんの一部なのだけど、私はこの箇所がどうも引っかかる。

 話している人は、教祖という肩書こそ謳ってはいないがそれに近い「老師」のような存在で、きっと今自分が生きていることに光を見い出せなかったり、他人と比べて劣っている自分を好きになれなかったり、こんなはずじゃなかったのにと思っているような若者に希望を与えるような発言だとは思う。「あなたは、あなたなりのその物語を生きればいいのですよ。それがあなたの生きる理由ですよ。」と、優しく響くだろう。

 

 しかし、彼はこう続ける。

 

ではなぜ物語が必要なのか? それはわかりません。

 

 わからないんかーーい。

 

ですが、この世界は物語を欲している。原子は、人間という存在を創り出す可能性にも満ち満ちていたのだから、物語を創り出す可能性にも満ち満ちていたことになる。我々の不安定な生からなる様々な物語が何に役立っているのかはわからない。

 

 いやだから、わからないんかーーい。

 

でも、世界とは恐らくそういうものなのです。

 

 どないやねん!

 

 こういう、突き詰めていったら肝心なところではぐらかされ、曖昧なそれっぽいことにすり替えられる(雑に結論づけられる)というのが私が宗教やスピリチュアルな理論に疑いを持つ大きな要因で、この老人の発言にそれが如実に表れている。

 おそらく本作の中では最も好感度の高い人物にケチをつけたくはないが、そこんとこどうなってんのよ。教えて、おじいさん! とこっちを完全にハイジ状態にさせておきながらの「世界とはそういうものです」には閉口してしまった。

 これが作者自身の逃げなのか老師が逃げているのか、またはそのどちらでもないのか、私にはわからないけれど、ここで「なるほど世界とはそういうものなのか」と素直に呑み込める人が純粋な信者になれるのかもしれない。

 

 

 この「なぜ生きるのか」とか「生きる意味はあるのか」のような疑問はずっとずっと昔から人間が頭を捻り尽しても未だに普遍的な答えが出ない問いであって、それ故「生きている意味なんてない」「私に存在価値はない」と悩まされる人もたくさんいると思う。

 

  私も、今より若いころは随分とそのこと(生きる理由や存在意義)を考えてきた。

 生きている理由が見つからず、意味もわからず、じゃあなんで生きなければいけないのか。

 どうしてもその明確な答えが欲しくて、でも私が求めているようなものはなかなかなくて、虚しさと共存する生きづらい時期をわりと長く過ごした(今もそうかもしれない)。

 

 それはイコール「死にたい」ではない。

 私は、生に対してもそうだし死に対してもそこまでアクティブではないのだ。

 

 それでも生きている限りは何らかの軸が欲しいから、個々で「私はこのために生きているのだ」という名目を見つけたくなる。けれどそれだと何もない場合が多いから、そこを補うために結婚したり子どもを育てるとかして役割を担うことでだいたいの人は折り合いがつくようなシステムの方を社会が発明したのは必然、そんな気がする。

 

 私は結婚制度に反対するような気持ちは全然ない(なんなら明日乗っかったっていいくらいだ)。

 未婚で子無しという立場で存在していると、自分がいなければ崩壊してしまう家庭もなければ死んでしまう他者もいないから、既婚者や子どものある人に比べたら生きている理由が希薄になりやすい。それで仕事に打ち込んだり趣味にのめり込んだり手当たり次第に資格を取ってみたり、代替の何かを手に入れたがるのもやはり自然な流れだと思う。

 

 私の場合は、仕事も趣味もそこそこという感じでやっていて、だからやっぱり生への熱量は基本的に少ない。

 生まれたから生きていて、死んでいないから生きている、そのくらいの温度。

 最近になって、こんな自分の覇気のなさを再認識するとともに、危機感が芽生え始めていることに気づく出来事があった。

 

 同世代の友人と(テキストで)話していた時のこと。

 

 私が今猛烈に犬を飼いたくて、それは依存心からでもあって、でも依存し合う存在でもいないと(自分のためだけに頑張るのは)しんどいのだ、というようなことを言ったら、友人に「自分をこの世につなぎとめるためにプログラムされているようだね」と言われた。

 全くその通りで、そうなのそうなの! と次に自分の口から出てきた言葉に今の私が集約されていた。

 

 親がまだ生きているからあれだけど、親すらいなくなったらもうこの世にほとんど用はなくなる。

 

 

 用がないって!

 

 自分で言っておきながら、後からじわじわ沁みてくる。

 

 親より先に死んではならぬという意志が無意識的に、でも確固としてあること。それさえ全うすればアガリのように考えていること。

 

 笑っちゃうくらい主体性がないじゃないか。

 

 だからこその犬なのだと、その時にがっちりと繋がった。

 

 犬と暮らしたいという気持ちの中に、単に犬が好きだという以上のもの、また母性とは違った、自分の生への意識の薄さに対するヤバさを本能的に察知して信号を出しているようなニュアンスがあるのを自覚した。

 

 さらには、はっきりとした生きる理由ができる上に自分に欠けている使命感と何者かを愛でる温かみを与えてくれて、俄然生活に潤いが出ちゃったりするんじゃないか、なんて密かに期待までしているらしいことも。

 

  適齢期(古臭い言葉だな)を過ぎた独身女性がペットを飼い始めると、あーあ、ついにそこに手を出したかという「やっちまった感」で揶揄するきらいがあるが、それも人間が編み出した生存術の一つくらいに考えてほしい。

 寂しさを埋めたい。自分以外の存在のために奮起したい。頼られたい。すり寄られたい。私がいないとダメなんだと思いたい。それらを生きる糧にしたい。

 どこが悪い?

 

 

 『教団X』に話を戻すと、私たちが各々物語を発生させていることに異論はないが、即ち「生きる理由」にはなるのかは未だに疑問が残る。

 私にとって物語というのは、結果論というか振り返ってはじめて見えるものであって、即ち「人生」とはいえるとしても、「我々は、我々の物語を生むために生きている」には後付けで理由をこしらえたような都合の良さを嗅ぎ取ってしまう。

 

 

 私がこの手の問答で最も腑に落ちたのは、恩師がある著書の中で「人生に意味はあるか」の問いに対して出した「人生に意味はない」という端的な即答。

 理由でも意味でも何でもいいけど、あるようなないような不可視のものに更にふわっとしたことを言われるよりも「ない」と言い切ってもらった方が余程さっぱりするし、ないならないで……の先を見ていこうと不思議と前向きになる。

 

 さしあたり、今の私の楽しみは、犬種を悩んでみたり彼(彼女)との蜜月を思い描いてはにやけることだ。

 

 最後に、私がねちねちと絡んだ「物語」という単語から連想するのは、「軌跡」あるいは「歴史」に近いものであることをつけ加えておく。

 その解釈故に、老師の言う「物語」とずれが生じている可能性がある。

 人によっては、物語といえば演劇のようなものをイメージし自分をその中の登場人物として捉えるようだ。

 これは、本書を読んだことがある人に、あそこを私がスルーできないのは誤読しているのかな? と尋ねてみたことで発覚し、どう読むかに正解も不正解もないけれど面白い違いだなと思った。