乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#77 箱男  安部公房著

 

 

 初めて読んだ安部公房がこの『箱男』で、当時大学生だった私はぞくぞくするような感覚を覚えた。

 それは更に十年遡った小学生の頃、江戸川乱歩に出会った時と同系の興奮だった。

 

 改造した段ボール箱を被り、否、被るというのか中に棲むといったらいいのか、とにかく箱男になって暮らすという設定が既に乱歩でいうところの『人間椅子』に通ずる変態性をぷんぷん匂わせ、箱男箱男となった動機、中の人の正体、その他諸々気になって仕方がなくなる。

 

 そうして好奇心に追い立てられるように読むのだけれど、やすやすと尻尾は掴ませてもらえない。

 

 現実と空想。本物と贋物。箱の中と外。あらゆる境界線がぐにゃりと歪んでまるでダリの絵画の世界に迷い込んでしまったような心もとなさで、むしろはぐらかされていく。

 

 一人の箱男が箱の中で綴っている記録だと思って読んでいるといつの間にか現実に起こったことなのか箱男の妄想なのかがわからなくなる。それどころか、書いているのが箱男(だと思っていた人)なのかどうかも曖昧になって、頭がおかしくなりそう。

 

 このトリッキーな構造こそが本作の魅力(魔力)だけれど、さておき、箱男の特徴といえば見る/見られるの「見る側」であることとその匿名性である。

 

「覗き」という行為が、一般に侮りの眼をもって見られるのも、自分が覗かれる側にまわりたくないからだろう。やむを得ず覗かせる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識だ。

 誰だって、見られるよりは、見たいのだ。

 

 

 一億総箱男時代

 

「匿名で覗く」というのは今インターネット上で多くの人が日々刻々とおこなっていることで、その意味に於いて私たちは皆箱男だ。

 しかも本当の箱男のように雨に濡れて不快な思いをしたり野良犬に怯えたり三年も垢を溜めたりすることもなく、実に快適且つ安全な環境でいともたやすく「見る」ことができる。

 

 もちろん、インターネットで見ることができるのは、見せる人(発信者)がいるから成り立っているわけで、見られている人は見ている人の存在は承知の上。けれど、どれだけ自主的に発信しようとも「どこの誰が」見ているかはわからない。

 

 私とて、一日のうち結構な時間を箱男として過ごしている。ただ、箱男としてコメントすることはないし、これからもするつもりはなく、ひっそりと箱男らしく見ている。

 

 

 少し前に、恋愛バラエティ番組に出ていた女性への誹謗中傷が問題になったけれど、あれは匿名を笠に着た箱男集団の悪行によるものだ。

 箱男(匿名者)が非箱男として生身を晒しリスクを取っている誰かに直接打撃を与えるなんて身の程知らずもいいところだと、沈黙の箱男としては言いたい。

 我々はおとなしく一方向的に「見る」ことを楽しめば良いのだし、何か言いたいのなら箱を被らずに言うか、箱を脱ぐ勇気がないのならせめて本人が見ることのないどこかで勝手に呟けばいい。

 

 

 一方で、私を見て! と見られたい願望を強く抱く人が溢れているのもまたインターネット時代ならではの現象だと思う。

 人に見られることの意味が昔とはまるで違う。見られないことが恥にもなる時代。

 SNSで人は人を見る。見られる人は見て欲しくて仕方がなくて、人に見られないことは不名誉で、見られるために見せる。見て見て見てという叫びが渦を巻く世界。

 

 これらが標準になっている社会で生きいていると、感覚は麻痺し、麻痺していることにも気づかず、自分が箱を被っていることなんて忘れてしまいがちになるのは、わからなくはない。

 

 でもやっぱり、自分だけが守られていている状態でのこのこ参戦しようなんて卑しくダサい。ましてやそれで誰かの命を奪うなんて言語道断。箱を被っていようがいまいが人間同士だということは、忘れていましたでは済まされない。

 

 

 二十年以上の時を経るというのはつまりネット社会への変遷を経ての再読でもあって、相変わらず摩訶不思議な物語に魅了されながらも感じることがこうも違うのかと今驚いている。

 

 こんなタイミングで再びこの本を手にすることができたのは、日本にいる友人がwithコロナの生活が今後も続きそうな頃合いに文庫本を数冊送ってくれたおかげ。まだ船便しか稼働していなくて、長い時間をかけ海を渡って届いた歓びを噛みしめつつ、いろいろ考えるところのある読書時間を過ごした。