乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#83 浜菊  伊藤左千夫著

 

『野菊の墓』の著者の、こちらもまた菊がつくタイトル。

 何か菊にとくべつな思い入れでも? と思い読んでみたら全く違うテイストの面白さがあった。

 

 ざっくりいうと、旧友の家に泊まらせてもらった際のもてなしにぶつくさ文句を垂れているだけの話。

 

 通された部屋がどうだ(今でいうとリビングではなくダイニングのようなところに座らされた)、座布団がどうだ、やれ湿っぽいの黴臭いの、顔を出さない家族は何をしているのだ、などと友人の対応にいちいち不満を感じ沸々と腹を立てる主人公。

 

 客観的には、友人の態度に非があるようには見えない。

 お茶や食べ物を出し、布団を運び、蚊帳まで用意してくれる。至れり尽くせりとまでいかなくても十分やっているのに、はなから期待値が高かったのか、とにかく気に入らない。

 

 細君は帰って終う。岡村が蚊帳を釣ってくれる。予は自ら布団を延べた。二人は蚊帳の外で、暫く東京なる旧友の噂をする、それも一通りの消息を語るに過ぎなかった。「君疲れたろう、寝(やす)んでくれ給え」岡村はそういって、宿屋の帳附けが旅客の姓名を宿帳へ記入し、跡でお愛想に少許り世間話をして立去るような調子に云って終った。

 

 遠路はるばる来た友人の疲れを慮ってか早めに去る気遣いすら、この言い様。どんだけかまって欲しいんだ。ていうか、宿屋が客にするもてなしって、褒め言葉だと思うけど。

 

 自分が軽んじられていると感じている人の怒りの矛先は、表面的な事柄から田舎で野心もなくなり所帯じみてしまった友人そのものへのディスりになる。

 

 予は彼が後ろ姿を見送って、彼が人間としての変化を今更の如くに気づいた。若い時代の情熱などいうもの今の彼には全く無いのだ。旧友の名は覚えて居っても、旧友としての感情は恐らく彼には消えて居よう。手っとり早く云えば、彼は全く書生気質が抜け尽くして居るのだ。普通な人間の親父になって居たのだ。

 

 

 学生時代は同じフィールドにいる仲間だった友だちが結婚して家庭を持った途端に旦那や子どもの話ばかりしてつまんない女になったもんだと見下すことで羨ましくなんかないもんねと平常心を保とうとするアラサー女子かよというシステムを、向上心に満ち満ちて結婚もして都会でよろしくやってるいい大人が採用しなければならないのは、自己満足では飽き足らず外から認められたい欲求がもうどうにも抑えられないからとしか思えない。

 

 要するに、この主人公は野心とプライドの塊でできた面倒臭いおじさんだ。

 訪ねてくる尊い客を友人および家族は全員首を長くして待ち構え、大歓迎の旗を振り、居心地の良い空間と実のある話題で飽きさせず、よく来てくれたとニ十分に一回くらい繰り返してほしいのだ。

 

 

 東京がいやというのは活動を恐れるのだ。活動を恐れるのは向上心求欲心の欠乏に外ならなぬ。おれはえらい者にならんでもよいと云うのが間違っている。えらい者になる気が少しもなくても、人間には向上心求欲心が必要なのだ。人生の幸福という点よりそれが必要なのだ。向上心の弱い人は、生命を何物よりも重んずることになる。生命を極端に重んずるから、死の悲哀が極度に己れを苦しめる。だから向上心の弱い人には幸福はないということになる。

 

 これは前回同じ家に泊まりに来た時の回想。

 熱い(暑苦しい )語りもどこ吹く風のお友達の受け流しがお見事。

 

 岡村は欠(あく)びを噛みしめて、いや有がとう、よく解った。

 

 さては岡村さん、わざとそっけない対応したんじゃないの。

 家族にも、あいつ面倒臭いからもういちいち挨拶とかしなくていいからね、とか言ってたんじゃないの。

 

 面倒臭いおじさん(主人公)は意外と岡村さんの小さな反応も見逃していなくて、時折厄介に思われているのではないかと察してはいる。察するけどそこで自らを省みる代わりに相手のせいにする。

 終いには、「みんな言ってるもん」と正当化するこのおじさんに対する岡村さん目線の章もあればいいのに、と思った。絶対笑えると思う。

 

追記:この話は著者の実体験が元ネタだと知って、こんな人があんな純愛小説を書いちゃうんだ?! と変な気持ちになりました。作品の出来と作者の人となりは別の話だとわかっていながら、『野菊の墓』で洗われた心に小さな染みを付けられたような、逆に左千夫の(左千夫って呼ぶの?)創作力に恐れ入るような、複雑な気分。