乱読家ですが、何か?

読書メーターで書ききれないことを残すためのブログです。

#26 礼賛  木嶋佳苗著

 

 キジカナのこと、もっと知りたい

 

 

『BUTTER』(柚木麻子著)読了よりも前に、既に芽生えていた好奇心。

 小説の登場人物としてのカジマナ以上の吸引力がある。なんといってもキジカナは、生身の人間なのだから。

 

『BUTTER』を手に入れるのと同時に偶然にもこの『礼賛』も書棚に並んでいて、買わずにはいられなかった。

 

 書評などの前評判は一切入れず、というか、木嶋佳苗が自伝的小説を出していることすら知らなかったのだけれど、兎にも角にも‘あの‘木嶋佳苗が‘獄中で‘何を発信しようとしたのか、ただそれを知りたい一心で読んだ。

 注:『BUTTER』の初出は『小説新潮』2015年5月号~2016年8月号

   『礼賛』は2015年2月28日初版発行

 

 

 ところで、このタイトルの「礼賛」という言葉を、私は初めて知った。

「れいさん」じゃなくて「らいさん」。

 

[名](スル)

1すばらしいものとして、たたえること。また、ありがたく思うこと。「先人の偉業を礼賛する」「健康を礼賛する」

2仏語。仏・法・僧の三宝(さんぼう)を礼拝(らいはい)し、その功徳(くどく)をたたえること。また、その行事。

 

  なんだか神々(こうごう)しい。

 キジカナは何を以てこのタイトルをつけたのか。ますます興味を持ちながら読んだのだが……

 

 

 

 カドカワ、よく出したな、これ。

 

 

 

 二段組のぶ厚い本書のほとんどは、キジカナであるところの花菜の性生活がつまびらかに綴られていて、三文エロ小説張りの性描写から読み取れるものは一切なかった。

 なので、それ以外の記述からキジカナがキジカナたる所以を掬わなければならない。

 

  

 性描写を除いた中で最も執拗に書かれているのは、彼女がいかに女性同士の繋がりを持たず、男性ばかりとかかわってきたか。

 

 

嫌な思いをする人とは付き合わなかったので、女性の友人は少なかった。私に幸せを与えてくれたのはいつも男性だった。

 

個人の多様性を許容する選択肢と度量が、女社会には用意されていないから、同性と横並びでいる努力はくだらないと思った。女性から好かれても、男性から選ばれることには何のメリットもない。男性を立て、男性から褒められ、喜ばれることが私の喜びで、そういう男性と一緒に過ごす時間が一番リラックスできた。

 

 

 徹底して女社会での無益なマウンティングを排除した生き方は彼女なりの保身術。

 その道を選ぶに至るには紆余曲折あったにせよ、そりの合わない母に代わって親しくいていた祖母の影響も少なくなさそうだ。

 

 

「女は凛と強い慈悲の心で、弱い男の人を支えて尽さなくちゃいけないんだからね」

 

 

 この教育論は、おばあさんの生きてきた時代を鑑みれば批判することはできない。当時なら至極一般的な女性としての心得だったはず。

 今現在でも、女性が男性を支えることは即ち奴隷になること(被差別)では決してない。

 

 その祖母の教えに従順すぎたのか、少女は極端に、頑なに、慈悲の心を持つようになった。

 

 

私は、男性によって息吹を与えられ、思考を持つ。

私は、こういう人間だからとか、私の意見はこうだと決めつけてしまわない。相手の要望に合わせて自分の打ち出し方をカスタマイズする。相手の状況や興味関心に合わせて、答えを変えていく。男性との会話において自分の中に答えを持たない。

 

 

 男性にとってはまるで聖女であり、精神と肉体の両方でもって優しく接するカウンセラーではないか。

 彼女の存在が癒しとなり救われる男性もいる限り、その関係性だって否定はできない。当事者同士がハッピーなら、いいと思う。

 

 こういう女性に目ざとく反応する人(とくに同性)も多いだろうが、そんなことは彼女だって百も承知。

 なりふり構わぬ色狂いではなく頭の良い人だということがわかる。

 

 

私のことが世間で騒がれたのは、男性が求める女性像を演じて愛されたことへの反感が根底にあるのだろう。

 

私の事件に多くの女性が反応したのを知って、男性に対して欲求不満や苛立ちを感じている不幸な女性が多いのだなと思った。自分に自信があり、自分の希望を叶えてくれる男性がいる女性は、多分私の事件に反応しないのではないだろうか。自分の人生に不満を抱いている女性たちが、私の容姿や人格的な誹謗中傷をすることで、自らの不安や憤りを回収させている気がした。女性たちの狭量さには、正直言って驚いた。

 

 

 この分析はある面では実に正確だが、一方で、彼女には見えていない別の面もある。

 それは、「反感」だけが反応ではないということ。

 

 私は確かにキジカナ事件に反応しているが、男性に対して欲求不満を感じていることが原因かといわれると、そのような自覚はない。肉体的に満たされている彼女に対して侮蔑も尊敬もない。じゃあどうしてこんなに気になるのか、それがわからないからこうして探っているのだけれど……。

 

 

「個人の多様性を許容する選択肢と度量が用意されていない」女社会には、私も違和感と不信感を持つことがあるから、キジカナのやり方はその中でのひとつのサバイバル術として見ている。

 そして彼女の肉体は彼女のものであるのだから、偏りがあるとしても男性の喜びを自分の喜びとして生きる方法を選ぶ女性がいても、まったく問題だとは思わない。

 

 このあたりは、概ね好意的に受け取れる。

 女性を必要としていない木嶋佳苗ではあるが、「わかるー」「だよねー」とか話せそうな気すらする。

 

 でも、私が知りたいのは、その先の話だ。

 彼女が肉体関係を持ち、大金を得た――騙し取ったといっていいのかは、判断がつかない――のちに男性がいずれも不審死を遂げた、そこのところ。そこもっとちょうだい! 

 

 

  なのに。

 

 

 そこんとこが、明らかに意図的に書かれていない!

 

 

 言うまでもなく木嶋佳苗は文筆家ではない。だから、小説としてのクオリティははなから求めてはいなかった。

 にしても、だ。

 

 

 結局、事前にネットで知ることのできた情報以上の発見はほぼなかった。

 

 このやり口こそがキジカナ流と捉えるしかないのか、出版社側の杜撰さと捉えるべきなのか。あるいは、双方の合致した思惑なのか。

 

  

 もはやタイトルの意図を汲む次元ではない。

   

 核心がどこにあるかを知っていながらその核心は用心深く遠ざけている姿勢は、礼讃どころか痛罵(礼讃の反意語)しそうになるくらい悪質だ。

 

 嘘でも作り話でもなんでもいいから、触れてほしかった。

 この不完全燃焼の満たされない思いを、一体どこへぶつければいいのか、誰か教えてほしい。